流れを変える~あなたの上司の自己保存

「上司の言うことは絶対ですか?」

僕は大昔、上位上司(上司の上司)から「上司の教育はお前の仕事だ」と言われました。「何言ってるの。ふざけないでほしい」と思いましたよ。逃げてばかりの上司を連れ戻すのは専ら私の仕事でしたが、その結果その上司のお陰で私は自立したとも言えます。なんでも自分でやらなければならなかったのですから。結局、私の自立は加速し、その後部長になったときには、大胆な意思決定を上司に相談なく行いました。その時の上司は前述の上位上司だったのですが、「勝手なことをするな」と怒られましたよ。実はその人が過去に意思決定した不良案件の損切だったのです・・・。私は心の中で「よく言うよ」と叫んでいました。私が異動しその部署の責任者になり、私の責任で清算したわけです。過去の負の遺産を切り捨てる(歴史は残ります)のは当事者ではなく後任など第三者にしかできないものです。それも自己保存の本能の表れでしょう。先送りしたって何も解決できません。思い起こせば、サラリーマン生活の中で、何度か前任者の負の遺産のけじめを付けました。やるしかないと決めてしまえばできないことはありません。まわりの人々も実は内心ほっとしているのですからね。苦しんでいる部下の気持ちを考えれば、さっさと決めるべきなのです。誰が結論を出すか(上品ではありませんが「けつを拭く」か)だけの問題です。面倒ではありますが、苦ではありません。エネルギーは次につなげるため向けるべきなのです。私が責任を取ればいい。部下たちには新しい仕事で活躍してほしいのです。

実は、私はそのことで誰からも責められませんでした。もちろん私もやるべき検討は多面的に行いました。顧客を法的に訴えるとどうなるのか、損害賠償という事態になったときのリスクはどうなのかとか、法務等関係部署を巻き込んであらゆるシナリオを検討しました。当然誰にも文句は言われません。ただし、上司には結果を報告しただけです。誰かがいつかやらなければならないことです。たまたま僕が異動して事実を知ってしまった。そうなったら僕に躊躇は全くありません。さっさとやる。一択です。

確かに前任者は気分が悪いでしょうね。忘れた(忘れたい)ゾンビが生き返り陽の下に晒されるのですから。でも、分かっています。本当は有難く思っていると。言われませんでしたけれどね。

ホッとした部下の顔が見られただけで満足です。クリアになった視界を見つめて前に進めることが何よりなのですから。

 

流れに身を任せることは、ある種「潔い」と考えがちですが、やることは全部やった、あとは「天命に任せる」というのと、変わることから逃げている(先送りしている)というのでは、天と地ほどの違いがありますよね。これも前に書いた「メタ認知」ができるかできないかがポイントだと感じます。今の自分を客観的に見ることができるかですね。

 

全ての生物には自己保存の本能があるといわれています。あなたの上司もです。それに気付いた時あなたはどうしますか?

僕は起業以来、仕事で使う封筒や、ファイルや、ルーズリーフの用紙などなどの多くを100円ショップで買っています。その中で先日最高にイノベイティブなものを発見しました。私はビジネス書を読むときに、気になったところにやたら付箋を貼っておくのです。あとでもう一度読み直して、必要だと思ったところをWordで書き留めておくのです。いろいろな付箋を使いましたが、一枚づつ取るのがとても面倒なのです。スーパーのあのロールしたビニール袋に入れる時のようなストレスを感じるのです。今回発見したこれは、一枚とると次の一枚の端っこがカバーの上に飛び出るという優れものです。スキップしたくなるほど感動しました。顧客の困りごとをよく分かっているからできることですね。
今年最高のBest buy(*^^)v

 

会議のカルチャー問題は大きいが容易に変えられるはず

企業の管理者と話すと、必ずといっていいほどぼやきのように語られる話が

会議が多い」です。僕は「あなたの意志の問題でしょ」と言いたい気持ちを押さえて「なぜでしょうか?」などとその原因に向き合うように質問を続けます。

その原因は何でしょうか。少し整理してみたいと思います。

まず、権限委譲が進んでいないことですね。私の体感で話しますと、例えば部長などの管理者の多くは、自分の権限と責任を矮小化しています。即ち自分で決めてはいけないと思っているわけです。従って免罪符をもらうために上司を巻き込み説明・承認のための会議を設定するわけです。上司も、それはあなたの責任で決めなさい。事前の承認は不要ですとは言わないわけですね。それでは変革を推進する管理者は育ちませんよね。いちいち承認をもらわないと何もできない管理者なんて不要です。ほとんどのこと(決して全部ではない)は事後承諾で問題ないと私は思っています。

更に、その原因を考えてみましょう。それは上司の問題ですね。そもそも企業の幹部はこうでなければならないというバイアスが根強くあります。それは以前にも何回か書いたあるべきあるべきリーダーシップの固定観念です。即ちリーダーとは力強く指示するものだという思い込みです。私はこれを悪しきC&CCommand & Controll)と呼んでいます。某社の昔のCIではないですよ(笑) 要するの幹部がいちいち指示するカルチャーで育った人は指示待ち人間になってしまうわけです。上司の承認がなければ何もできないわけです。そんなカルチャーで育った集団は、自分の責任と権限を矮小化してしまうわけですね。悲しいかな当然の帰着ですね。

また、優先順位を他人に委ねるという情けない幹部がそういう状況になりがちです。何のアジェンダ優先するかは経営問題ですよね。幹部は自分で決めるべきです。それが仕事です。それを部下に開放する(会議を勝手に入れられる)からそれだけで時間が無くなるのです。それも、先ほど書いたように、そもそも部下が自分で決めればよいことを会議で議論(実際は上司に決めさせる)するからですね。その積み重ねが結局優先順位の高い事業戦略や重要案件の将来を検討するというような最優先課題をないがしろにしてしまう結果につながってしまう。当の幹部もそれを反省してマネジメントの変革をしようともしない。そんな企業は自然死へ向かうのは当然ですよね。すべて上司即ち幹部自身の問題です。誰のせいにもできません。更に最低な人たちは、なんだかやたら忙しい自分を見て「俺は頑張ってるな~」なんて勘違いしている。救いようがありません幹部は常に最重要アジェンダにフォーカスすべきです。最重要ミッションは「サステナビリティ」のはずです。

残念ながら幹部であってもバイアスまみれです。これは避けようがありません。幹部でなくても、常に鏡に写る自分を見て「これで良いのか」「自分は最善を尽くしているのか」「優先順位は間違っていないか」と問いかけ続けなければなりません。それができない人はリーダーになってはなりません。部下が不幸です。

次に申し上げたいのは、冒頭の話に戻りますが、C&Cの蟻地獄から逃れることです。管理職が考えるべき部下の育成のポイントは、部下の自立です。要するに、「自分で考え、自分で決め、さっさと行動すること」です。もちろん、それは放っておくことではありません。「どうするつもり?」と問いかけ、「それでお客様はどう思うだろうか?」などと適切な問いを壁打ちのように連打し、自分で考えることの重要性を癖づけることです。そしてずっと見守るのです。これには以前に書いた「女性性」が必要不可欠なのです。多くの人がそれを理解していません。

「ちむどんどん」から考える - Heaven's Kitchen / 清水のブログ by Seed Master Consulting

管理者など幹部の人は自覚してほしいのです。あなたの頭脳と情熱と行動力と時間は経営資源なのです。その優劣で企業のサステナビリティは決まるのですよ。

 

少々角度を変えて生産性の話をしましょう。会議の構成要素は「所要時間」「参加人数」「開催頻度(回数)」といっても良いでしょう。考えてみてください。例えば、そのすべてが半分に出来ればどうなるのかを。分かりますよね。投入工数は1/8ですよ。分かりますか。更に、忘れてはならないパラメーターが、会議のための資料作成根回し(事前会議)ですよね。皆さん分かっているでしょ。資料を制限すること、参加メンバーが事前に理解する努力をすること、など、できることはたくさんあるはずです。それはもはや企業における規律といっても良いでしょう。そういう変革ができない管理者は不要だと僕は思います。意志の問題です。言い訳は通用しません。

バイアスから解き放たれなければ新しい世界は作れない
21世紀美術館(金沢)
プールの下は予約制(涙)

 

自立とウェルビーイング

最近クライアントと対話していてふと気づいた。長い社会人人生の中で、より良くあり続ける(即ちWell-Being)ためには、他者との関係を客観的に感じ取ること、そして、自分なりの考えをちゃんと持つことが必要不可欠なのだろうと。当たり前のようですが、それができていない人が多いと感じます。

 

例えば、アセスメントという機会がありますよね。多くの企業で行っているのではないだろうか。その結果をちゃんと受け止めていますか? 結果が出たときだけ、「ああそうなんだ」と思っても、それを受け止め行動を変えようと努力する人は少ないでしょう。そう、真剣に捉えていないし、自分を客観的に見る努力をしていませんね。自分を俯瞰的に見る、即ちメタ認知してみることの大切さを考えたい。

アセスメントでなくても、こんな機会はあるでしょう。信頼できる、空気を読まないストレートでオープンな友人からフィードバックを受ける。「君って〇〇だよね」と。素直に受け止める器のない人は、「この野郎! 好きなこと言いやがって。豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ!」なんて相手を恨んだりする。そんな人は大切なフィードバックの機会をすべて失うわけです。方向修正する機会や成長する機会を失っているわけですね。すべて、批判に受け取ってしまう。その延長線がTESマンに囲まれた裸の王様の生活に行きついてしまうことを知らないのでしょう。耳の痛いことを言ってくれる人を遠ざけ、耳障りの良いことを言ってくれる人だけを取り立てるわけです。いますよね。万が一そういう人が幹部に昇格したら、YESマン以外のすべての人から、尊敬されるどころか呆れられることは間違いないでしょう。つまり、すごく勿体無い人生を送ってしまうということです。

人は弱い。実に弱い生き物です。自分のことを自分の都合よく解釈している。実は他者からこう見えているという客観はなかなか得難いものなのです。その事実に向き合うことは案外難しいのです。そう、見たくないものは見えないのです。その本能に抗うことがフィードバックを得て考え直すことなのです。

自分を客観的に見るということはどういうことなんだろう。僕は思う。見たいものだけ見る弱い自分の頸木から逃れること。それは自立主体的に生きるということ。自分と他者の関係を理解し、どのように生きるべきなのかを考えること。そうすれば、自ずと、相手の顔色を窺い、お追従的人生を生きるという選択はしないのではないか。意味のない会議に参加する、嫌々指示に従う、フィードバックもない報告書を書く、型にはめたがる上司や会社に従う・・・ 自分は何を考え、何を喜びに感じて仕事をしているのか。心に向き合い正直に生きてほしい。自分の姿をメタ認知することから始めよう。その先にあるのは、「りたい自分」のはずだ。

そう。受け身ではない自立したキャリア主体的な仕事自分で考え、自分で選択した行動。(そんなこと許されないなんていう)許す許される(それも頸木)ではない自立。そんなこと許されないなんて、あなたの思い過ごし・虚像にすぎないのです。

 

自立・自律がウェルビーイングのスタートライン。自分で選んだ行動を堂々と行う。ありたい姿を堂々と追及する。できないと思っているの? やってないだけでしょ。

ウェルビーイングは自立なしに成立しないと分かってほしい。

今までの自分からの自立。バイアスからの自立。学習してきたことからの自立・・・

それが実行できると、スカッとした人生にギアチェンジできるような気がする。

キャリアの自立を地でいく「マーヴェリック」。だからカッコいい。

 

「シティーポップ」で素敵な朝を迎える

日本国内で独自の進化を遂げた「ティーポップ」が今海外で見直されているらしい。

ギターの軽いカッティングなどとてもお洒落な空気を醸し出す。日本オリジナルと言われているが、実は北米で広まったAORの影響をたくさん受けていると思うし、僕も70年代後半から80年代は、Bobby CaldwellやBoz Scaggs、Bill LaBountyなどは大のお気に入りだった。近年皆さんが聞いたことのある曲イメージは、ホンダ・ヴェゼル前モデルのCMソングのあの軽い曲がその感じ。あの曲は好きだったな。ホンダはSUVのイメージを変えたかったんでしょうね。お洒落にね。その目論見は、あの曲で成功したんだと思う。

この竹内マリアの非公式動画は、2000万回以上再生された。アジアのミュージシャンが北米で注目されたのは、坂本九BTSだけと言ってもいいが、日本のシティーポップがアメリカでスポットライトを浴びる日も近いかもしれない。

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ビスマルクと歴史

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

という言葉を知っていますか?

これはプロイセン王国ドイツ帝国で鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルク(1815-1898)の言葉です。

意味はこんな感じです。自分が失敗を犯して初めて自らの知として蓄積され、二度と同じ過ちを犯さない、のは当たり前のことで、どんな愚かな人でもそうするでしょう。しかし、歴史を辿れば愚かな過ちは枚挙にいとまがないほど存在していて、ケーススタディーには事欠かないわけで、賢者は形式知されたそれらを学び、決して過ちを犯さない、ということを示していると思います。

実は、彼が行って言葉は正確には「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」だったそうです。過去の他人の経験とは歴史そのものなわけでそう置き換えたのでしょうね。

前にも書きましたが、ビジネスにおいては形式知がものを言うわけです。なぜ過去に犯した失敗と同じことをまたやってしまうのか。私も何度も見てきました。なぜ人は学ばないのか。

大きな原因は、ミスをミスと認めず、直視せずに流してきたこと。それがなぜ問題なのか。それは・・・、それにより決して形式知化されることがないからです。なぜ失敗をしたのかを客観的に分析し、言語化して残し、後継者に引き継いでいくことによる、知の蓄積が競争優位の源泉なのに、それを捨てているのと同じです。

皆、失敗を認めたくないし、掘り返されたくない。周りの人も可哀想だと思ってしまう。それは損失以外の何物でもありません。失敗は誰でにでもあるし、そうしてしまったのは反省して二度と同じ過ちを犯さなければいい。それを残すことが組織への貢献であり、無形資産である、という価値観を定着させなければなりません。

それはリーダーの務めですね。知の集積は時間を要します。小さな努力と利他心の積み重ねです。その歴史が組織を強くするし、カルチャーとして定着する。言うまでもなく、強い組織にはそれがある。自分と向き合う勇気がある。

皆のために汗をかく、歴史を刻む。そういう価値観を持ってほしいものです。

直視しないから、考え直す(再考)こともない。謙虚に反省することもない。これは心理学的に言っても人間の本質を突く大きな問題です。教養とも深く結びついているとも感じますね。この辺は今読んでいる本からもたくさんの示唆をもらいました。その辺は別途書きたいと思います。

お茶でも点てて瞑想するように自分に向き合う。
そんな時間が大切ですね。@金沢



世界の未来

ロシアが一方的に仕掛けたウクライナに対する戦争も、早くも3か月が過ぎた。残念ながら終わりは全く見えないままだ。

今に至るまでNATOをはじめとする西側諸国は直接的な介入は一切していない。武器を供与したり、衛星の情報を提供したり、最新兵器の使い方を指導したりにとどまっている。国連憲章を無視する暴挙を目の前にしても、ロシアよりはるかに国力のある国々が、明確に介入しないと宣言しているような事態は、歴史的に今までなかったことだ。NATO加盟国のGDPの合計はロシアの10倍、空軍力は5倍だそうだ。しかし、その武器供与も、アメリカを除けば限界も近いのではないかともいわれている。この戦争はいつ終わるのだろうか。経済制裁と武器供与でこの戦争を終わらせることができるのだろうか。ロシアが疲弊するのは間違いないだろうが、敗北を認めざるを得ない終戦を決断するとは思いにくい。プーチンがいる限り。

COURRiE JAPON5.6月号にピケティが書いた記事が載っている。「いまの経済制裁の仕組みでは、大きな打撃を受けるのはロシアの多数の庶民であり、体制を支える少数のオルガルヒや泥棒政治で私腹を肥やしてきた階層ではない」「現状でもオリガルヒに制裁を科すと言ったことが喧伝されているが、実際に制裁の対象となっているのは数百人ほどにすぎない。しかもその制裁は系統だったものではなく、逃げ道がいくるもある。制裁の標的にすべきなのは、ロシア人資産家数万人が西欧諸国で投資している金融資産や不動産資産なのだ」残念ながら、その大多数の庶民はプーチンのやったことは正しいと判断している。東側諸国で今でも行われているプロパガンダは、今のところ絶大なる効果を発揮している。残念ながら、正義も情報によっていかようにも捻じ曲げられる。その事実を前にすると、無力感に苛まれる。ある意味、ネット情報に踊らされる僕たちも同じようなものだが・・・

ルーブルの暴落や経済制裁によるインフレで、ロシアの庶民が年金や給料の半分を失うことになったとしよう。いまその人を助ける手段はない。その人が訴え出る裁判所もない」「一方、資産が一億ユーロ以上あるオルガルヒからその資産の半分を取り上げることにするとしよう。そのとき、その決定に不服を申し立てる方法は複数あり、それにお金を支払わずに済むことも多いのだ」

西側諸国が民主主義の名の下に作り上げてきた法律や価値観であったとしても、ほぼ同じだ。常に富裕層は保護される。そんなことは誰も気に留めないのだ。

「法の支配といっても、これでは完全に偏向しており、非対称だ。西側諸国は、法と正義をいっそう徹底しなければならない。そうすることでポスト軍国主義とポスト植民地主義の世界を建設することに貢献できるのだ」

僕たちは何をしなければならないのか。答えは見つからない。

僕たちは、インフレも景気後退も円安も、そしてもちろんその他の地政学的リスクも、しばらくの間は覚悟して受け止めなければならない。一人一人が感度を上げ、世界で起こっていることを自分事として捉え、意見を持ち、政治に参加し、余裕のある人はお金を積極的に使い、省エネを進め、清廉に生き、他者に優しくし、社会に貢献していくしかないのかな~ あとはウクライナの人達への寄付ですね。

都会のオアシス。こんな環境も、ウクライナの多くの都市から消え失せただろう。
九品仏

 

減量とポッドキャスト

最近ウォーキングの頻度と距離が減ってきた。その理由の一つは歩きながら聴くポッドキャストのお気に入りが無くなったこと。以前に書いた「COTEN RADIO」のエピソード250強をすべて聴いてしまったのだ(今でも週1くらいは更新されている)。歩きながら聴く楽しみを失うと、歩くモチベーションもなんだか下がっちゃう。もちろん他のものをいろいろ試すのだが、魅力的なものに出会っていないのだ。別にジャンルを絞っているわけじゃない。知的好奇心を満たせる興味深いものが欲しいの。

3年弱くらいから、ウォーキングの際に「Runkeeper」というアプリを使って記録を取っている。とはいえ、立ち上げ忘れる時も多いし、以前のスマホではどうも正確に動作しないことが多く、使っていなかった期間もあった。先日そのアプリから、通算2,500キロを記録したと通知が来た。ということはゆうに3,000キロ以上は歩いたことになる。いや4,000はいったか。ま、どうでもいいんだが、結構歩いたものだ。ジョガーの皆さんに比べたら高が知れているが・・・ 正に「ちりも積もれば・・・」である。

体調管理のためにあと2Kgくらいは減量したい僕は、ウォーキングとジムワーク、そしてアルコール摂取量減がターゲットになる。いずれも強い意志が必要だ。楽しみと共存できるのがウォーキングだったわけで、それが楽しみと相反するアルコール摂取量減とは根本的に違うメリットだったわけ。

やっぱり、ポッドキャストを探そう。どなたかお薦めを教えてください。

PS. その後「みんなの世界史 ミンセカ」というポッドキャストを聴きながら歩いてる。COTENは超えられていない。

こどもの日はこんな感じ。帰宅してビールをグイっといきたいところですが、
そこはカロリーゼロのALL-FREEライムショットで我慢(笑)