ORIGINALS 4つの選択と組織カルチャー

少し前になるが、アダム・グラントの「ORIGINALS 誰もが『人と違うこと』ができる時代」を読んだ。彼の著作は3冊読んだが、どれにも凄く影響を受けた。

誰にでも個性やクリエイティブティはある。しかし、それが発揮できるかどうかは、個人の問題だけではない目に見えにくい何かに影響されるのだろうと感じる。彼の記述の一部を取り上げて、僕の感覚を少し書いてみたい。

 

経済学者アルバート・ハーシマンによると、満足のいかない状況に対処する方法は4通りあるのだそうだ。それは、「離脱」「発言」「粘り」「無視」

「離脱」とは、その状況から完全に身を引くこと。もうその試合から手を引くということだ。

「発言」とは、その状況を積極的に改善しようと行動すること。対案を出し議論するとか、争うのもその範囲でしょう。

「粘り」とは、歯を食いしばって我慢すること。じっとするわけではなく、吹き飛ばされそうな状況でも頑張って続けるということでしょう。

「無視」とは、現状に留まるが努力はしないことだ。流れに身を任せるということでしょう。

なるほど。確かにそうだよね。

どれを選ぶかは、状況の決定権が自分にあるという気持ちと、コミットメント即ち状況に関与したいと思う前向きな気持ちにかかっている。確かに、その選択権は自分の手中にあり、自分の価値観や意志次第だ。ポイントは自分が変化をもたらすことができると信じているかどうか変化を起こそうと思うほどの高い関心を持っているかどうかだ。という。言い換えると、オーナーシップを持てるかどうかだ。これはとても大きな問題で、何に対しても「他人事」の人は何の行動も起こしはしない。このことを意識するだけでも、行動は変わると感じる。そう、自分の意志次第であり、自分の行動如何で変化は起こせるはずだと信じているかどうかなのだ。

上手くいかない時、他者から攻撃を受けダメージを追ったときなど、人により様々な行動に出る。その人のパーソナリティーによって実に様々な行動パターンがあるだろう。それを集約すると上記の4つになるのだろうと思う。ただ、そのどれを選ぶかは価値観とそれによって培われた意志や指向・志向によるのだろうと感じる。そして、その行動を困難なことと思うのか、どうということのない安易なものと思うのかは、ひとりひとりの「自己効力」によるだろう。要するに上手くいかない時のリスクをどう感じるかだ。(もちろん、自己効力の高い人はリスクなんてほぼ考えない)

例えば、入社してからずっと上司の指示のままに働き続ける人もいる。何の動機付けがなくとも、自分で考え最も良い方法などを考え抜き、自分なりの手段でどんどん実行する人もいる。当然、新しい取り組みは上手くいくとは限らない。その時にパーソナリティーに従った4つの行動のどれかを自然に選択するのだろう。

 

多様性の許容度の高い組織であれば、4つのどの行動も上司や同僚は受け止めてくれる。しかし、そうではない即ち独自の行動が許されない組織では、批判され「離脱」の道に進むか、謝罪して「無視」の道に進むかしかなくなってしまう。

私たちの自分らしい自由な意思によって、独自の行動をとることができる寛容性の高い組織で育まれるのが、自立・自律(以下自律)だろう。しかし、自律とは個人の能力の問題であると思われがちで、部下を成長の道に導きたいと考えている上司であっても部下に自律を求めたりする。「自律しろ!」と一種の指示を出しているのかもしれない。しかし、それが実現できるかどうかは、「命令」や「教育」ではなく、多分にその上司も含む組織カルチャーによるのではないだろうか。自律は命令によって成立するのではなく、導くことによって気付くことなのではないだろうか。

そう、部下の行動は上司やその組織カルチャーがどのように職場環境を育んでいくのかによるのではないだろうか。

 

シェリル・サンドバーグは著書「リーンイン」でこのようなことを書いている。発言するのはリーダーらしい行動だが、女性がリーダーシップを発揮すると威張っているというレッテルを貼られがち。それは研究データが証明されている。女性が男性と同じ発言をしても低く評価されるのだ。上司が、その提案を受け止めず実行に移す可能性が低いのだ。その結果、女性が発言をする場合は大きな代償を払わなければならないと気付いてしまう。即ち、女性の方が先ほどの4つの選択をせざるを得ない経験をたくさんしている可能性が高い。そんな悲しいことが現実なのだ。男性の多くは歪んだ眼鏡をかけていることに気付いていない。独自の視点は男女差によっても歪められるのだ。僕たちはI&Dや組織カルチャーの様々な問題を正しく理解しなければならない。

清々しい心は前向きな選択を促すのだと思う
毎年訪れるこの季節が好きだ

 

 

 

「どう生きるか」 物語の様に生きる

90歳も近い大御所の一橋大学名誉教授 野中郁次郎さんが言う。

『経営』は生き方であり、生き方は『物語』で表現される。

だから、戦略には『創作』が入っていい。

そう、戦略は「ナラティブ(物語り)」なのだと思う。そもそもビジネスがどう展開するかは予測不可能だ。とはいえ、できる限り確度の高い見通しを立てて、それに対応できる戦略を考えようとする。市場や競合他社はこう動くという予測だ。しかし、いかにデータを収集し分析しようが正解などない。上司は「だったらもっと分析しろ」と言う。どれだけ分析すれば気が済むんだ。時間ばかりが過ぎていく。その塩梅を判断できるのが構想力のあるビジネスリーダーだ。これ以上時間をかけても無駄だと、早々に見切りをつけて「きっとこうなる」だろうというナラティブを書くのがリーダーの務めだと思う。腹落ちするナラティブ。後はさっさと行動することだ。それが重要なのだ。もちろん、予測は時に外れる。ズレ始めた、もしくは外れそうだと分かったら、この時もさっさと方針を変えればいい。躊躇せずに変えればいい。当初立てた方針に執着する人は多い。成功するまで続けることが大切なんだと。読みを間違えているのだから、しがみついても未来はない。そこは朝令暮改でいいのだ。軽く始めてだめなら止める。これがAmazon社の「2way door」発想だ。始めたら止められないと考えるのではなく、さっさと試そう、ダメそうだったら戻ればいいという考え方。ドアは1方向にしか開かないのではない。出たり入ったりできるのだ。という発想だ。前にも書いたよね。試すことが奨励される会社は居心地がいい。前野教授の「幸せの4つの因子」の一つ目が「やってみよう因子」なのだ。Wellbeingに繋がる重要な文化が「やってみよう」なのだ。

 

野中教授が言う。経営者、リーダーにとって「『どう生きるか』が重要なのだ」と。お爺さんはまだまだ本質を突き続けている。

僕も頑張らないとね。見識のレベルが根本的に違うか~(笑) ごもっとも

コンクリートジャングルにも創作はたくさんある
どんなナラティブがあるんだろう
六本木ヒルズ

正義を飲み込まないで行動するために

4/5日経新聞の「誰のために働きますか」を読んだ方も多いと思う。今まで僕も何度か書いている企業の不祥事に係わる鋭い指摘だ。

記事によると、企業の「不適切行為」は増加している。その原因を三菱電機の社員の話が明確に指摘していると解釈できる。「同僚は皆、製造部や開発部出身の所長の顔を見ながら仕事をしていた。問題を指摘した人は目を付けられて、あからさまな人事で報復を受けた。恐怖人事の効果は絶大で、皆委縮した」

なぜこのようなことがあちこちで起きるのだろうか。早稲田大学久保克行教授はこう言う。「自身のキャリアを考えたときに社外よりも社内の評価を優先してしまう」と。会社の中がいかに内向きなのかがよく分かる。

 

組織の在りようとして、時に強いリーダーシップを求めることがある。以前に書いたようにローマ帝国の歴史を見てもよく分かる。どうしようもない現状を打破するために人民は力で改革する専制君主を求める。しかし、いずれその傲慢さに嫌気がさし、民主化を求める。しかし、人民は幸せにならず、再び強い君主を求める。その繰り返しが歴史だろう。企業においても同様の傾向がある。業績が低迷したり、混沌としたマーケットで将来を描きにくく状況を打破できない時など、社員や株主は強く強引なリーダーを求めるものだ。企業における強いリーダーシップは、日常的な指示命令、目標達成圧力、などが繰り返し、そのリーダーは「支配型ヒエラルキーを作る。指示を守らないと懲罰を課す。そうして組織を統制する。組織構成員は全員イエスマンと化すのだ。そして、ヒエラルキーのトップは好きなように統治するための厚い壁の境界を作る。いわゆるムラ社会を作り出す。価値観を一色に染め、外界とのコミュニケーションを避ける。外の組織とは相互不可侵の関係を求める。「僕の組織に口を出すな、こちらも口を出さないから」 そんな関係では永遠にコラボレーションは起きないし、外からの情報は遮断される。そして、その状態のままムラ社会は維持される。トップは自分の威光を維持するために傲慢さを強め、それは次のレイヤーのリーダー達の傲慢さを育む。そうして、次々に裸の王様が続いていく。正義を求める勇者は打ち首にされ、正義が大きなエネルギーになることはない。

 

そんな組織の特徴は、その他どのようなものがあるだろうか。想像してみるといい。例えばこのようなものだと思う。組織の中に多様性がない。ボスにとっては多様性は邪魔なのだから。仮に中途で入った人も染められる。染まらないといられないからだ。そして、権限委譲は進まない。細かいことまで上司の承認を必要とするからだ。新しいことに挑戦しない。あらゆるチャレンジに上司はいちゃもんを付ける。3つの過剰(以前にも書きましたね)は当たり前の様に行われる。組織外とのコミュニケーションはオープンでなく、コラボレーションは起きずイノベーション当然起きない。組織は硬直化し、腐っていく

 

そんなわけないだろう。と思う人は実に幸せだ。多くの組織は大なり小なりそんな企業カルチャーを持っている。だから、不祥事はなくならないのだ。

 

以前あるクラアントとそんな話になった。正義を追求すべきか、闘わず巻き込まれるべきか。闘えば大きな傷を負うだろうことは容易に想像できる。クライアントは、それでも正義を追求したいと言った。僕も同感だと話した。とても頼もしかった。

もちろん、傷を負おうが死にはしないから恐れる必要はないと考えられる人もいるだろう。僕がそうだった。勤めていた組織では、上司の指示に反対を表明し何度も逆鱗に触れた。「クビだ」と切れられたことも何度もある。その時は僕自身が呆れかえり(呆れる余裕があったということかもしれない)「どうぞ」と言ってしまった。首になどならないという確信があったし、僕の言っていることが正しいという自信があった。そういう姿勢は、少なからず周りに影響を与える。そんなことが何度かあると、周りは「愚かな奴だ」から「骨のある奴だ」に少しは変わっていったのだと思う。誰も僕の意見に表立って賛同はしてくれなかったけどね。僕は運が良かっただけなのかもしれない。

こんな行動をお勧めしているわけではない。では、どんな行動があるのだろうか。

 

正義は追求したい。そんな組織にしたい。それは多くの人にとって理性的な願望だ。しかし、以前に書いたダイハツの不正のケースでも、上記の三菱電機のケースでも一人で闘うことの難しさとリスクはよく分かる。

こんなことにチャレンジしてみたらどうだろう。一つ目は正義の相談相手を探すことだ。意味は違うけど「ホワイトナイト」というイメージだ。普段から人脈を広げる努力をすることが肝心だが、然るべき役職者で「相談相手」になってくれる人を見つけておくことだ。「メンター」と言ってもいい(実は「コーチ」もそういう役回りでもある)。直属のラインの人でなくて少し離れた存在でいい。前に話した「Giver」の人を選ばなければだめですよ。いつでも「相談があるんです」とアクセスしても気楽に「いいよ」と言ってくれる人だ。僕の経験からしても、人は助けを求めてくれる人にオープンなものだ。「僕のメンターになってくれませんか?」とか「相談相手になってくれませんか?」という要請には弱いのだ(了解してくれる)。試す価値は十分ある。もちろん、上司の上司の上司くらいの人でもいい。その人の人柄が分かっているのならね。

二つ目は仲間を探すことだ。同じような問題に悩んでいる人は絶対少なからずいるはずだ。会社によっては、古い体質を変えるために組織を作って改革を進めているところもある。そういう組織はトップの危機感をベースにして会社のカルチャーを変革するために適切な人材を集められている。ラジカルと言っても良い危機感を抱くリーダーと若手で構成され、オープンな議論とトップに庇護された大胆な思考とチャレンジ精神に溢れている。そんな仲間がいれば、彼らと呼応することだ。堂々と呼応すればいい。そんな組織はなくとも、必ず同じ危機感を抱く人はいるはずだ。その輪を広げることに挑戦してほしい。

三つめは今の新しい考え方を学ぶことだ。日本の企業の変革を阻害しているものの大きな一つがそのようなカルチャーであることは間違いない。しかし、それがどれだけ罪深いものなのか、世の中にはそのような病から治療するための漢方薬がある。残念なことに、この薬を飲めばすぐ直るという特効薬はない。体の内部からじわじわ治す漢方薬しかない。先ほどの記事にもこうある。デロイトトーマツファイナンシャルアドバイザーの中島祐輔氏は「企業に根付いた風土は簡単には変わらない。放っておくと元に戻る」と指摘する。漢方薬で体質を治して完治させないと、すぐにまた病気になると言っているわけだ。僕は、学ぶべきは、「男性性と女性性」「DEIの本質」「ムラ社会の実態」「やってみよう文化」「ウェルビーイングや幸せの4因子」「GRITのリスク」「現状維持バイアス」「ビロンギング」「不確実性に向き合う方法」などなどではないかと思う。何れも、組織に染み付いた根強いカルチャーを変えるためのヒントとなる。そしてすべては、たとえ強烈なボスでも建前としては「その通りだ」と頷かざるを得ない物語りのはずだ。だから、堂々と語れる。それらを現代に生きる組織の当たり前にするための闘いをしれ~っと進めるのだ。

 

ここで一つの懸念がある。「正義」の対抗軸は「悪」ではないということだ。「正義」のに対抗するのは「別の正義」なのだ。これはとても厄介な関係だ。「悪」ならば論理で理解できる。しかし「別の正義」には別の論理があり、説得には早々応じてもらえないのだ。だから変わるのには時間がかかるのだろう。説得しようとすれば、心を閉ざしてしまうか、より対抗軸と強めるかだろう。どうすればよいのだろうか。職場でオープンな対話が飛び交う心理的安全性を培うことだろう。皆さん、普段から雑談してますか。なんでも言い合える関係を作れてますか。この人間関係がとても大切だと理解してくださいね。

 

日本企業の多くは昭和のそんな文化を今でも変えられないままだ。誤解してはならないのは、オッサンが悪くて若者が正しいということではないということだ。改革派のオッサンもいれば、染まり切った若者もいる。言えることは、不祥事を経験した企業が真摯にその原因に向き合えば、必ず乗り切ることができるだろうということだ。しかし、表面的でおざなりな対策を持って変革だと禊をしたつもりになっているとしたら、それは致命的な病巣を持ったままオロナインを塗って対処した気になっている自画自賛バカだということは間違いない。そうなったら退場してもらうしかない。幸い不祥事は起きていないが、病巣は似たようなものだと感じたら行動しよう。まずは、周りの人たちと話し合ってみよう。

周りに見守られて凛と立つ

 

 

ロングゲーム 人生を味わっているか

ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために(ドリー・クラーク著)」の話をしよう。たくさんインスパイアされた本の一つだ。引用しながら感じていることを書いていこう。

 

「何かを始めるには、まず起動時間がかかる。たとえ最高レベルのイノベーションであっても、最初のうちはただお金が吸い込まれる穴にしか見えない時期が長く続くものだ。だが、ひとたび足場が固まれば、ただの穴が競争力のある強固なお堀になっていることに気付くだろう。究極的に企業が求めているのは利益であり、それが実現するのは10年単位だ。四半期単位で実現することではない。長期で考えらえる人だけがその地点に到達することができる。」「そしてそれは一流企業だけでなく、私たち個人の仕事にも長期的な思考が必要だ」

「全ての成功の裏には、渇望していたものがどうしても手に入らなかった瞬間がたくさんある。しかしそれと同じくらい大切に味わいたくなる瞬間も経験するだろう。なかなか前に進めずに辛い思いをする瞬間、こんな努力は無意味だと思う瞬間、あとから思えば大きな意味を持つ。」「私たちにとって挑戦とは自分への挑戦だ。誰にも気付かれず無視されていてもそれでも前に進んでいく。世界がいつか自分の存在に気付くはずだろうと信じ続ける。」

人生を味わっているだろうか。挫折したり、疲れたり、打ちのめされたり、人生にはいろいろな障害がある。上手くいくときよりいかない時の方が多い。しかし、それに負けずに挑戦を続ければ必ず未来は開ける。後から思えばその感動をもっと味わっておけばよかったと気付くものだ。人生を味わい尽くすのだ。きっと違う何かが見えてくる。僕は若い時に比べて時間の流れを泳いでいる時に感じた何かを、ちゃんと味わっている気がする。自分に対してインクルーシブになったのかもしれない。自分と向き合えるようになったのかもしれない。それが熟成なのかもしれないし、残された有限の時間を生きる本能、即ちそれはただの老いなのかもしれないが。

 

意味のある人生とは何か?」「幅広く考え、人としてどう成長したいのか理想の自分像を人生にどう織り込むかということも考えなければならない。」「欲しいものはほぼすべて手に入るのだと理解することだ。ただしすぐには手に入らない。きちんと計画を立て忍耐強く着実に前に進んでいけば、いつかは目指していた場所に到達することができる。最初のうちは遅々として進まないかもしれない。だが、努力は福利の様に大きくなる。一つずづ行動を積み重ねていけばいつか驚くような結果を出せる。」「目先の利益の誘惑に負けず、不確実ではあるが、価値のある将来の目標に向かって努力を続ける。これがロングゲームをプレイするということだ」「簡単なこと、すぐに結果が出ることばかりを求めるこの薄っぺらいな世界で、意義深く長続きする成功を手に入れたいのなら、これが最も確実な道だ。」

忍耐強く着実に前に進む。簡単に聞こえて実は難しい。人は皆短気だ。すぐ成果の出ないことを長く続けることは簡単ではない。何かのギフトがないと続かない。楽しいとか、褒められるとか、周りの人が共鳴してくれるとかだ。著者の言う「努力は福利」という指摘に深く共感する。しかし、そのことをほとんどの人は気付いていない。ロングゲームを楽しみながら進もう。人生は積み重ねなんだ。

 

「予定の詰まったカレンダーは、自分で作った牢獄というのが事実だ」「ノーということができれば、カレンダーに余白を作り、本当にやりたいことができる」

「コロンビアビジネススクール研究によると、忙しいことは社会的ステータスに繋がる」「激務をこなし、それをアピールすることは自分の自尊心にとって大切だということだ」「自分が価値のある存在だと思いたいという気持ちが私たちが忙しさを求める強力なインセンティブになっているのだ」「忙しいと深く考えなくて済む。忙しさにはどうやら麻酔のような効果があるのだ」「そういう人たちは自分をコントロールできていない

これを読んで、グサッときている人は多いだろう。僕もそんな状況にあった。人は忙しければ忙しい程プライドをくすぐる。「忙しいぞ、どうだ偉いでしょう」とでも言うように。全く愚かな勘違いだ。私のクライアントもそういう人が多い。Outlookを公開して部下が全部スケジュールを埋める。その通りに仕事を進め、自分一人でやる仕事は夜間と週末だ。そんな上司がロールモデルになるだろうか。もちろん、Noだ。そんな人にはなりたくない。そして、部下は上司に頼り、上司は頼られることを心地よく引き受けていると部下の自立は遠のく。上司は上司でハイレベルな行動をとる時間を取れない。それでは仕事のレベルは永遠に高まっていくまい余白は自分の意志で作らなければならないのだ。余白を何に使うかが戦略的でなければ、上司失格だ。ロールモデルになんかなるわけがない。

 

「根拠もなく自分の能力を過大評価する。目標達成までのプロセスも、成功するために本当に必要なものも調べようとしない。夢のようなことを語るばかりで、その裏にある努力と犠牲のことは都合よく無視する。当然の結果として期待したように上手くいかずにがっかりするのだ。」「成功への道のりは楽ではない。最初からその大変さをきちんと理解していれば、懸命に戦略を立て途中で挫折を経験しても立ち直ることができる」

ビジネスを考える時に、そのプロセスの難易度を甘く想定する人は多い。失敗の経験がないのも原因の一つだろうが、想像力が決定的に足りない。何が起きるか、他社だったらどう出てくるか、誰が破壊者になり得るのか、視野が狭くかつ浅く、そして時間軸を未来に向けられない。学習と訓練、そして、それには忍耐と努力が必要だと理解し、更に覚悟が必要だと理解してほしい。努力をするものだけにリターンがあるのだ。

 

「ベゾスは常に長期の難しい目標を探している。他の人が恐れをなして逃げ出すような目標だ。3年単位の目標ばかりを追っているとたくさんのライバルと闘わなければならない。しかし、7年単位の目標を考えるとライバルは激減する。時間軸を伸ばすだけで、短期では達成できない大きな目標に取り組めるようになる。実際のところ、私たちのほとんどは野心が足りない。そして、その具体的な目標を立てる人はほとんどいない

ビッグピクチャーを描いてごらん、と言われてもなかなか描けないものだ。これも訓練。視座は磨けるのだ。

 

「ロングゲームを生きるためには 1.独立心。自分のビジョンに忠実であることだ。」「周りの目を気にしすぎるなということだ。頼まれたら断れない。結果が出るのには時間がかかる。他人からの評価を気にしていると、その待ち時間に耐えられない。自分の評価基準を設けることが大切だ」

これは一種の審美眼のようなものだろう。確固たる考え方がなければ揺れまくる。揺れた挙句、その状態に耐えられなくなる。それでは結果に辿り着けない。

2. 好奇心。道を見つける好奇心。何に火つけられるのかを理解しておく方がいい」

3. 立ち直る力。上手くいくかどうかはやってみなければわからない。しばしば失敗に終わる。あまりにも多くの人が一度の拒絶や失敗ですっかり意欲を削がれてしまう。偶然や運、個人の興味が結果を左右する。成功するかどうかは打席に立つ回数で決まると言っても過言ではない」

その通り。残念なことに日本はこれが全くダメ。以前にも書いたが、上司はブレーキを踏みまくる。野中郁次郎先生が指摘するよう、分析過剰で、計画過剰で、コンプラ過剰で、いつまでたっても試させてくれない。その3つの過剰が日本をダメにしたという指摘だ。100%同意する。新しいことにチャレンジしなくて成長はない。自分で考え、自分の意志でチャレンジし、そして失敗する。そう、失敗なくして成長はないのだ。ただ、失敗の仕方があるよね、というのが「リーンスタートアップ」などの教えなのだ。学ぼうよね。そして、大けがしないように失敗すればいいのですよ。

 

ロングゲームである人生。味わうにはちょっと立ち止まって、鏡に写る自分と向き合うことが必要なのかもしれない。

友人ご夫婦と会食後の二次会。別腹の余白を作らないと人生は味わいつくせない。
残念ながら僕には無理(笑)

壁打ちの修行は上司の基本

「壁打ち」とは何なのかご存じだろうか。昔空き地に作られた「ネットの線の書かれた緑の壁」に向かってひとりテニスを楽しむことと、思い出すかもしれない。実はもう一つ重要な意味がある。壁の役になってあげて、聴き役に徹し会話の相手になることを言うのだ。

実は、コーチングとかメンタリングにおけるとても重要な役回りを象徴する言葉でもある。言い換えると、上司が部下との1on1において真の目的を達成させるためのポイントを的確に示した行動指針でもある。真の目的とは、自分の力と意志で問題を解決できることに気付くことだ。

以前に「傾聴」の大切さを書いた。もちろん、「傾聴」とは相手の話を真剣に心で聴くことだが、相手が話してくれなければ何の意味もない。それも胸襟を開いて話してくれなければ1on1の意味はない。そこに「壁」の技術がある。まず「壁」からサーブを打つ。そう、「壁」即ち上司からサーブを打つのだが、ここで最も重要なのは相手が返しやすいサーブを打つことだ。つまり、難しい質問をしたり、ハイレベルすぎるテーマ出しをしないことだ。第一段階はラリーを長く続けることだと考えてほしい。相手が初心者であれば(ビジネス経験の浅い部下)、上手く返せない。しかし、どんな球がこようが「壁」は再び返しやすい優しいレシーブをするのだ。ともかく、それをたくさん続けるよう努力してほしい。

実はこれは結構難易度が高い。即ち、ラリーはなかなか続かないものだ。会話が滞る(主に部下が固まったり、ピンボケは返事をする)わけだ。滞らなくとも意味のある本質的な会話にいつまでたっても到達しない。「壁側」のレシーブが下手だとそうなってしまう。優しいようで、レシーブを返すたびに本質に近づくように優しく返しやすく会話の方向を掘っていくのだ。イメージを膨らませたり、言い換えたり、比喩を使ったり、一歩踏み込んだ質問をしたり、合意、共感、反芻したりなどなど、いろいろなテクニックを使ってラリーを続けるのだ。イメージが湧かなければ書店でにたくさんあるコーチングの本を探してみるといい。ヒントがたくさん載っている。

以前にも書いた記憶があるが、1on1が普及してきた数年前、ある企業がアンケートを取った、上司に対しては「1on1をやっていますか?」。部下に対しては「1on1をやってもらっていますか?」だ。「YES」と回答した比率は、面白い位前者に比して後者が圧倒的に低いのだ。即ち、上司は「やっているつもり」、部下は「やられた記憶がない」だ。このギャップはいかに「壁打ち」が下手でラリーが続かないかを示していると言っていいだろう。

 

「壁打ち」を意識すると1on1はまるで奇跡の様に開かれていくし、人生が変わっていくことは間違いない。

テニスの「壁打ち」も対話の「壁打ち」も練習あるのみなのですよ。イメージしてチャレンジしてみよう。

ラリーが続けば、キャリアの階段を上がっていける。そんな壁打ちを実現してほしい。

パクリが昇華されるとオリジナルになる

山口周さんという思想家がいる。著作を読んだこともあるし、時々彼の”X”も読む。彼は、自分の書いていることなど全部パクリだ、なんて自虐的なことを以前に言っていた。誰かの言っていることをパクリだと批判している人がいたから(その手の批判ばかりする人が多い)、それに対して自分の意見を言ったのだろう。

世の著作は全部パクリだと言ってもいい。完全オリジナルなど存在しないだろう。もちろん、論文をコピペしたとか生成AIに書かせたなどは愚の骨頂だが、オリジナルと言っても誰かの何かにインスパイアされできたものだ。

パクリ=コピペではないのだ。パクリ=インプット=インスパイだと思う。インプットがあって学びがある。脳の中に既にある学びのデータベースと繋がり「そうかそういうことだったんだ」と気付く。何かが弾ける。理解が進む。投げた石によってできた池の波紋の様に広がり、今まで見えなかったものが見えてくる。それが「学び」だと思う。パクリは学びを生み出すんだ。昇華するからオリジナルになる

山口氏の言うように、パクリ結構ではないかと思う。インプットは多い方がいい。ある時、いろいろなデータが繋がり、昇華しオリジナルに変化していく。その繰り返しが“進歩”だと思う。人類はそうして進歩してきたのだ。

 

ここで話を変えたいと思う。今、インプットは多い方がいいと書いた。以前に寝ている間にデータは整理されると脳の話を書いた。本当にそうだろうと思っているが、多くて消化できないのでは?と思うのも自然だ。確かに、多すぎるデーターは活用できないと感じる。

こんな話がある。医療の世界では人為的なミスで命を落とす事故がたくさん起きている。「失敗の科学」(マシュー・サイド著)にこうある。「医療業界には『言い逃れ』の文化が根付いている。ミスは『偶発的な事故』『不測の事態』と捉えられ、医師は『最善を尽くしました』と一言言っておしまいだ。しかし、航空業界の対応は劇的に異なる。失敗と誠実に向き合い、そこから学ぶことこそが業界の文化なのだ。彼らは、失敗を『データの山』ととらえる」確かに、航空業界では一度事故が起きると国が定めたプロセスでその解析を徹底的に行う。膨大な事故データもその道のプロが分析する。そして、同様のことは二度と起きないように対策が施され、徹底される。航空機メーカーはシステムとして改善を進め、空港、管制など多面的にシステム改善と人為的ミスの撲滅のための施策が展開される。しかし、医療業界は全く違うという。人が関わる範囲が多いし、自動化が進んでいない。人為的ミスが起こり得る範囲が凄く広いのだ。そして、何か事故が起こっても、第三者が分析し対策を立てそれを徹底する仕組みがない。航空業界と違って、膨大なデータを分析する体制がない。では当事者(病院・医師)ができるのかと言えば、無理でしょう。例えば、「臨床医が医学雑誌で毎年ほぼ70万件(ページじゃない)も発表される論文と闘っている状態」を考えると、全く違う体制を整えない限り現実的な解は見いだせないだろう。

「航空事故の調査レポートでは、情報を(精製して)現実的に要点をまとめてある」とのことで、そのプロセスなしにデータの利用は不可能だと(当たり前だけど)、改めて気付いた。

 

僕なんて、しょっちゅう探し物をしている。前にブログに書いたはずだ、どれだっけ? とか、何かの本で読んだ。どの本のどこだっけ? とか。読書する際は、興味深い内容のところには付箋を貼っていて、本によってはやたら付箋だらけだったりするが、それでも、思い出したい特定の内容に行きつけるのは稀だ。情報を検索しやすいようインデックスを作るマメさも根性も持ち合わせてはいない。明らかに何かを探している時間は年々増えていく。それは蓄積したデータ増え続けているからなのか。

認めたくはないが、それは加齢のせいなのだろうね・・・とほほ。

ベンチに座って太陽の陽を浴びる。それが心地よい季節になってきた。
春本番も間もなく。

 

グッド・ライフ ~今を生きよう!~

グッド・ライフ 幸せになるのに遅すぎることはない」 ロバート・ウォールディンガー著 を読んだ。この中にとても共感した一節がある。

「生涯に手にするお金が、全額手元にあるという前提で人生を始めると想定してみよう。生まれた瞬間に一つの銀行口座が与えられ、支払いが必要なときにはいつでもお金を引き出せる。働く必要はないが、何をするにもお金がかかる。でも、困ったことに口座の残高は確認できない。お金が尽きてしまえば人生は終わる。もしこのような状況に置かれたら、あなたは今と同じ生き方をするだろうか。それとも、どんな形でもいいから生き方を変えたいと思うだろうか。」

これは悩ましい問いだ。僕はどんな生き方を望むだろうか。

この一節には続きがある。

 

「もちろんこれは架空の話だ。だが、ある重要な要素を変更すれば私たちの実際の人生とそれほど違わない。現実には、口座に入っているのはお金ではなく時間だ。そして、時間の総量は知り得ない。時間をどう使うべきか。日常的に頭をよぎる疑問だが、人生は短く不確実であるからこそ深遠な問いでもある。それに健康と幸福にも密接にかかわる問いだ。」

 

ぐさ~っ

時間をケチってはいまいか。やりたいことに惜しみなく時間を使っているだろうか。欲望や志に従って躊躇なくやりたいことを選択しているだろうか。年老いて時間が十分余っているような状況で、時間を弄んでも仕方ないではないか。残った時間を考えたり、将来を不安に感じたりせず、一生懸命「今を生きる」ことが最も幸せだと気付く。

皆さん、もちろんそれにいつ気付いても人生の過ごし方を変えることができるし、いつであっても遅すぎることなんてない。今すぐに変えればいい。

しかし、気付くのは早ければ早い程良いと思う。人間には限界がある。避けれらない事実がある。例えば、認知症になったら意欲を失う。心身が弱ったら行動範囲は一気に制限されるのだ。

今を生きようぜ!

さて、今日は何をしようかな(^^♪

僕の視点からは広く見えている気がしても、
僕はミニチュアの世界に生きているんだろうな。