パクリが昇華されるとオリジナルになる

山口周さんという思想家がいる。著作を読んだこともあるし、時々彼の”X”も読む。彼は、自分の書いていることなど全部パクリだ、なんて自虐的なことを以前に言っていた。誰かの言っていることをパクリだと批判している人がいたから(その手の批判ばかりする人が多い)、それに対して自分の意見を言ったのだろう。

世の著作は全部パクリだと言ってもいい。完全オリジナルなど存在しないだろう。もちろん、論文をコピペしたとか生成AIに書かせたなどは愚の骨頂だが、オリジナルと言っても誰かの何かにインスパイアされできたものだ。

パクリ=コピペではないのだ。パクリ=インプット=インスパイだと思う。インプットがあって学びがある。脳の中に既にある学びのデータベースと繋がり「そうかそういうことだったんだ」と気付く。何かが弾ける。理解が進む。投げた石によってできた池の波紋の様に広がり、今まで見えなかったものが見えてくる。それが「学び」だと思う。パクリは学びを生み出すんだ。昇華するからオリジナルになる

山口氏の言うように、パクリ結構ではないかと思う。インプットは多い方がいい。ある時、いろいろなデータが繋がり、昇華しオリジナルに変化していく。その繰り返しが“進歩”だと思う。人類はそうして進歩してきたのだ。

 

ここで話を変えたいと思う。今、インプットは多い方がいいと書いた。以前に寝ている間にデータは整理されると脳の話を書いた。本当にそうだろうと思っているが、多くて消化できないのでは?と思うのも自然だ。確かに、多すぎるデーターは活用できないと感じる。

こんな話がある。医療の世界では人為的なミスで命を落とす事故がたくさん起きている。「失敗の科学」(マシュー・サイド著)にこうある。「医療業界には『言い逃れ』の文化が根付いている。ミスは『偶発的な事故』『不測の事態』と捉えられ、医師は『最善を尽くしました』と一言言っておしまいだ。しかし、航空業界の対応は劇的に異なる。失敗と誠実に向き合い、そこから学ぶことこそが業界の文化なのだ。彼らは、失敗を『データの山』ととらえる」確かに、航空業界では一度事故が起きると国が定めたプロセスでその解析を徹底的に行う。膨大な事故データもその道のプロが分析する。そして、同様のことは二度と起きないように対策が施され、徹底される。航空機メーカーはシステムとして改善を進め、空港、管制など多面的にシステム改善と人為的ミスの撲滅のための施策が展開される。しかし、医療業界は全く違うという。人が関わる範囲が多いし、自動化が進んでいない。人為的ミスが起こり得る範囲が凄く広いのだ。そして、何か事故が起こっても、第三者が分析し対策を立てそれを徹底する仕組みがない。航空業界と違って、膨大なデータを分析する体制がない。では当事者(病院・医師)ができるのかと言えば、無理でしょう。例えば、「臨床医が医学雑誌で毎年ほぼ70万件(ページじゃない)も発表される論文と闘っている状態」を考えると、全く違う体制を整えない限り現実的な解は見いだせないだろう。

「航空事故の調査レポートでは、情報を(精製して)現実的に要点をまとめてある」とのことで、そのプロセスなしにデータの利用は不可能だと(当たり前だけど)、改めて気付いた。

 

僕なんて、しょっちゅう探し物をしている。前にブログに書いたはずだ、どれだっけ? とか、何かの本で読んだ。どの本のどこだっけ? とか。読書する際は、興味深い内容のところには付箋を貼っていて、本によってはやたら付箋だらけだったりするが、それでも、思い出したい特定の内容に行きつけるのは稀だ。情報を検索しやすいようインデックスを作るマメさも根性も持ち合わせてはいない。明らかに何かを探している時間は年々増えていく。それは蓄積したデータ増え続けているからなのか。

認めたくはないが、それは加齢のせいなのだろうね・・・とほほ。

ベンチに座って太陽の陽を浴びる。それが心地よい季節になってきた。
春本番も間もなく。