「ちむどんどん」から考える

■ちむどんどん

朝ドラを観ていますか? コロナ前で私がまだ会社員だったころは、在宅ワークもなく、既に会社に到着している時間でしたので、全く観ることはなく、かつてやっていたドラマの題名も全く知りませんでした。それが、近年は完全に朝の習慣になっています。それも、日によっては7:30からBSで、8:00地上波でと、2回観たりして(笑)

その最新作が始まった。その名も「ちむどんどん」(胸がドキドキするという意味)だ。主演の黒島結菜がいいね。「スカーレット」に出演していた時に「いい女優だな~、今に大物になる」と僕の直観がささやいたが、2年経って主人公役を射抜いたわけです。

彼女の言う「『女のくせに』とか『女らしく』って何?」が心の響く。私も彼女同様「カチンとくる!」のです。その意気その意気と呟いてる(笑)

その「ちむどんどん」の暗黒ぶりが話題になっている。アメリカ占領下の貧乏家族の姿が痛いのだ。借金に苦しみ、サトウキビを作り、内職をし、何とか生計を立てていたところに、父が亡くなり、益々家計は苦しく、子供たちには体操着や運動靴も買ってあげられず、普段来ているものはつぎはぎだらけ、母は農業に加え工事現場で働き、夜中まで内職の毎日、長男は働かず、どうやらこれから騙され借金を増やすというストーリー展開になるらしい。ともかく暗黒。子供たちの明るさがそれを救う。その中にあっての反骨精神が冒頭のセリフにつながる。

「女のくせに・・・」なんていうセリフは昭和の当たり前だった。いや、今だって時々聞くかもしれない。その一部は冗談のつもりかもしれないが、根っこには性差に対する決めつけがあるのは間違いない。

東京五輪組織委員会の会長を務めていた森喜朗氏が「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」なんていうのも、その典型でしょう。私が知っているある企業幹部も「女性には厳しい仕事をアサインしないように気を付けている」と言っていましたが、それも差別ですね。個人の特徴や希望ではなく性別で決めつけているわけですからね。本人はそれが「上司の優しさ」だと勘違いしているわけです。それが現実です。もちろんはっきり間違いを指摘しましたが・・・

 

■女性性、男性性

「女性性」「男性性」とは何だろうか。いろいろな考え方があるようですが、少し僕の考えをまとめてみますね。

「女性性」とは積極的にありのままを受け止める力、身を委ねる力、誰も置いていかないという包み込む力、すなわち受け取る力なのではないだろうか。感性、情感、本能に近いもの。

それに対して「男性性」とは、自分の意志を固めてエネルギーを結果を出すために出力しコントロールする力、すなわち出す力なのではないだろうか。愛をベースに何でも受け止めようとする「女性性」に対して、目標を明確にして「こうしなければならない」と決めつけてエネルギーをフォーカスするのが「男性性」だと思うのです。それを支えるのが、論理、理性、言語化に近いものではないだろうか。

だから、よく言われるように、「女性性」は全員を受け止め置き去りにしない行動をとり、「男性性」は決めつけ、できない人を置いていく行動になる。そうなると、「女性性」が「Inclusion」を培っているのに対して、時として「決めつけてしまう」「男性性」が悪さをするケースがあるということですね。

誤解しないでほしい。女性にも「男性性」はあるし、男性にも「女性性」はある。昔はそんな概念はないので、決めつけが激しい男性が「女性はこうあらねばならない」なんて当たり前に思っていたわけだ。この価値観も「男性性」の典型なわけです。(男はこうあらねばならないと考える女性は、男性性を発揮しているということ)

考えてみると、受け止め、理解し、幸せを願う、包み込むことは、愛やエネルギーを受け止め貯めこむことに他ならなりませんね。それに対して、考え、計画し、行動することは、ロジカルに考えた目標に向かって強い意志で計画的にエネルギーを出していくことに他なりません。受け止め、願う「女性性」、計画し、出力する「男性性」と大雑把に表現しても間違いはないでしょう。

ビジネスシーンを想像すると、成果を求めて追及する「男性性」にフォーカスしてしまいがちになるのは分かりますね。しかし、出力ばかりにフォーカスして成り立つのでしょうか。一人一人の個性を受け止め、個性を活かして補い合い、一人一人に合った将来を考え、ともに歩んでいくそんな組織にしたいですよね。成長のための自律した個が助け合うのが「チーム」ですよね。だから、多様性を受け止められるし化学変化が起き、イノベーションが生まれます。即ち、「男性性」だけでは「チーム」は作れません。1on1を単なる「業務報告」「評価」に終らせてしまうのも「男性性」のなせる業ということですね。そう、ありたい姿を共有し、キャリアプランを一緒に考えるためには、リーダーの「女性性」がなくてはならないのです。

以前にも書きましたが、コーチングの世界でよく「Being」「Doing」を分けて考えます。前者は「在ること、在りたい姿、状態」を意味し、後者は「なすこと、やり遂げたいこと、行動」を意味します。その両方を考えることが大切だというアプローチをするわけです。考えてみると、前者は「女性性」のアウトプット、後者は「男性性」のアウトプットに近いかもしれませんね。

 

 

これは、ステレオタイプな「女性らしい」「男性らしい」という価値観を捨てるべきということ。即ち誰にでも「女性性」も「男性性」もあるということ。更に、なければならないということ。そしてそのバランスやTPOは一人一人皆違っていい。あなたらしいバランスを考えればいいということ。出すべき時に使い分けられればいいということだと思う。

五月晴れ。二日酔いの昼下がりはウォーキングに限る。

 

前提は「ローコンテクスト」

最近感じたことを少し書きます。社内でのコミュニケーションは、コロナ禍の在宅ワークの浸透というアゲインストの風の中、社員の孤立を避けるため、またはコラボレーションを進めるため、またはエンゲージメントを高めるために、多面的に機会を増やす努力をしている企業も多いことと感じています。一方で、上司と世代ギャップのある若者たちとの間は、お互いの立場や価値観を理解し合い信頼関係が進んでいるとは思えません。その一つの理由を考察してみました。

 

年に一回の上司との面談。長い会社生活の中で、私は一度もされたことがなかった。常に上司は「いつも話してるからいいよね」という調子。その多くは仕事の後の飲み会だったりするのだが、そんな時にシリアスな将来のキャリアなどを話すわけもなく、恐らく上司のほとんどは僕の希望や思いを知らなかったと思う。正直言って、話してもしょうがないと思ってもいた。ま、それで困ったことは起きなかったのはラッキーだが・・・

ここで問題提起をしますね。今、皆さんが取り組んでいる1on1ローコンテクストを前提にしていますか? ローコンテクストとは、経験や言語や文化的背景などが違い直観的に意図が伝わらない関係ですね。例えば、突然あなたの部下の一人が一度も日本に住んだことのないフランス人になり、双方片言の英語でコミュニケーションをせざるを得ない時のことを想像してみてください。背景や歴史などを丁寧に共有しなけばビジネスの会話は成り立ちませんよね。なぜその戦略を取るのか、なぜそのような評価を下すのか・・・ 納得のいく説明には相当の努力と時間を必要とするでしょう。そうです、あなたとは経験もリテラシーもスキルも能力も違う若い部下も、同様のギャップを持っている前提で話さないと伝わらないかもしれないのです。もちろんフランス人ほどではないでしょうが・・・、一言で腹落ち・納得すると思ったら大間違いですね。丁寧に言葉を尽くすことを忘れてはなりません。

それができなければ、恐らく職場の心理的安全性を高めることはできないでしょう。(「心理的安全性」とは、ありのままでいることに心地よさを感じられるようなチームの風土のこと)

 

日本人のダメなところがそこにあります。単一民族、単一言語、個性よりも「皆と同じ」を尊重して育てられたこと。入社したら定年までそこで働くのは当たり前、一つの企業カルチャーに染まり、社内で使われている言葉も社外では使われない言葉だったり、組織には壁があり、皆率先して境界を作る人ばかり。ムラ社会は会社にはびこる。などなど。およそそんな環境なわけです。

だから、ハイコンテクスト(お互いの意図が察し合える環境があり、阿吽の呼吸が存在する)が当たり前になり、それを理解できない人が排斥される。多様性を前提としていない狭い社会。これが日本をだめにしたと強く思います。そんなの昭和の時代でしょ、と仰る方もいるかもしれませんが、そういう人に限って今でもそうなのかもしれませんよ。言わなくても分かるだろうという圧力を出してませんか? 絶対に出していないと言い切れますか? 奥さんに対しても言い切れますか? 奥さんもそう思ってますか?

D&Iローコンテクストが前提だと思う。それを理解しないと、カルチャーは変わらない。伝統を否定しているわけではありません。守るべきものも多い。しかし、阿吽で分かれよ!は絶対にダメですよ。若い人やキャリア採用で入った人は「なぜそうなの?」と皆思っていますよ。ハイコンテクスト同調圧力になるときもあるし、押しつけに感じる人もいるだろう。幻の心理的安全性を自慢している管理職ははっきり言って「能天気」です。

 

「僕の言いたい文脈は分かっているはずだ」という前提を捨てましょう。そこから新しいコミュニケーションが始まります。

これがチーズケーキ??
固定観念は捨てるべきですね。実に美味しいのです。幸せの時間

 

 

思考と成長

エマニュエル・トッドの思考地図」を読んでいて少々インスパイアされた。最近、コーチングしていて、「考える」ことにいかに向き合うかが重要なテーマのように感じ、「思考」を考えてみたくなったのだ。

僕にとって「思考」とは、今目の前で起こっていることの理由や因果関係や本質など、表面的には分かりにくい深いところを突き詰めるプロセスだと感じます。その時のポイントは、掘っていくこと広げていくこと。即ち見る範囲を大きくすること。見ていくと、何かを「発見」しますよね(もちろんしない人もいる。それは感度の問題で別のテーマ)。その多くは、今まで積み重ねた学びや経験に照らして、それらとの関係や類似性や方程式のような何かだと思います。その結果、なんとなく「なるほど、そういうことか」とか「ということは、あれもそうなのか」というように自分なりに腹落ちするというか、したり顔をするというか、なんとなく納得するのです。または、「それは分かったが、昔はそうじゃなかったような気がするが、いつ頃から変わったんだろう」などと、次の思考探索が始まったりもする。

「思考」に大切なのは、インプットの量だ。比較対象したりする対象が多くなければ発見がないということ。以前にも「上質なインプットがないと人生が先細る」と書いたが、その意味がここにあると思う。常に学び続けてデータベースに格納しておくことが「思考」に不可欠だということです。残念ながら加齢によって、徐々にデータベース自体に霧がかかってしまうのは避けられないが(涙)。

 

さて、冒頭のコーチングをしていて感じたことを少し書きますね。僕たちは常に「流される」状態に陥っていると言っても過言ではないでしょう。その自分に気付いているでしょうか? ほとんどの人は、「そんなこと考えたこともない」と答えるでしょう。また、「どうありたいのか」と問いかけても同様の答えが返ってくるでしょう。

そうです。流され続けているとどうありたいなんて考えないし、当然それと現状のギャップを考えることもありません。ということは、「流れを変える」行動を起こしようがないということを示します。

行動を変える」ことが成長のエネルギーです。しかし、鏡に映る自分を見て今の状況を感じ、なぜそうなのか考え、どうしたいのかを深く掘っていくことをしなければ、絶対に変わることはできません。

立ち止まって考える。逃げずに事実と向き合う。それが人生だと思うのです。

 

客観的に自分を見ることは難しいですよね。しかし、データベースが膨大で、それらと比較することを恐れなければ、相当客観的に自分と向き合えるでしょう。それは行動変容を促し、成長の触媒になります。「思考」は人生のエネルギーなのです。

しかし、目の前のことで常にてんてこ舞いなあなた! 考えてないですよね。自分と向き合ってないですよね。インプットを増やす努力をしてないですよね。

それで本当にいいんですか?

一年で最も花の綺麗なシーズン。街はカラフル。
社会も多様性に溢れもっとカラフルになるといいね。

 

ホワイトすぎるが上司は違う

桜もほぼ散ってしまい。少々街が寂しくなった。春は何となくウキウキする反面、実は僕はなぜか少しブルーになる。なぜだかは分からない。季節性のそういう症状もあると聞く。ま、受け流せる範囲で幸いだが・・・

 

さて、就業期間の短い若者たちを中心に日本の会社員の流動性は凄く高まった。基本的にはとても良いことだと感じるけれど、企業サイドとしては大きな問題だ。企業がサステナビリティを高め成長を続けるために最も必要なものが人材だ。人的資本と言われている。経営戦略的に言うならば、採用ー育成ーリテンションの3点セットを経営課題として真剣に向き合って対処することが重要だ。したがって今、企業のHR部門のプロフェッショナビリティが問われているのだ。

さて、そんな典型の大企業において今問題になっているのが、「ホワイト過ぎ問題」。企業は「ブラック」の誹りを免れるよう過度に気を遣う。ワークライフバランス、上司とのコミュニケーション深化のための1on1、多様な研修等々、相当手厚いそして、気を使いすぎる「ホワイト」振り。そう「過度なホワイト」なのだ。笑う人もいるかもしれないが、笑えない事実なのだ。

これがなぜ問題なのか? 過度なホワイトは言い換えれば「甘やかしすぎ」とも言える。知人の企業に聞くと残業の配慮(というよりしないように仕事をアサインし管理する)を丁寧に行うと、入社期間の短い若者たちから「もっと働きたい」と要求されるのだそうだ。そういうKYホワイト(笑)はどういう影響を及ぼすのか分かりますか?

実は「退職」なのです。「もっと貢献したい」「もっと働きたい」「成長したい」という欲求に応えるどころか、否定していると言っても良いメッセージなってしまっているのだ。

大切なのは、そんな部下の成長をどのように促進すべきか考え行動することだ。「成長のために甘やかす」なんていうことはあり得ないよね。

戦略的に考えてほしいのが1on1。その場で部下のキャリアプランを一緒に議論しましょう。まずは、「将来のありたい姿」「なりたいもの」「やりたい仕事」を明確にしましょう。それをある程度明確にできたら、ホワイトボードの左下に「今のあなた」、右上に「将来のあなた(なりたい姿)」を書き、その間を直線で結びましょう。その線が部下の成長というイメージだ。もちろん一直線に行くことは考えにくいかもしれないが・・・。5年スパンでも10年スパンでも構いません。だどっていく道が「Transition(遷移、移り変わり)」です。それが順調に右上に進んでいくために、その線に直角に合流するものを描くのです。エネルギーを注入するように。それは多様な経験かもしれませんし、学ぶべき技術なのかもしれませんし、ビジネススキルかもしれません。それが何なのかを上司はアドバイスするのです。そうなりたいなら、こういう経験をするといいね、とかこういう研修を受けなさいとか、恐らくたくさんのアドバイスができるでしょう。そして、的確な異動や研修を設計するのです。その場でオファーしてもいいかもしれません。上司と部下がホワイトボードに向かって描いたものがキャリアプランです。部下は希望を抱き、チャレンジ精神を掻き立てられることでしょう。Transitionを実現する手助けをすのが上司だ。それができれば部下は成長し、企業の中で貢献を続けるでしょう。即ちWin-Winの関係になるのです。

そんな1on1を行っていますか?

 

さて、問題がもう一つあります。なりたいものを問いかけても「分からない」「まだ決めていない」と薄い反応しかない人も多いでしょう。その時はどうしますか? 話を終えてしまいますか? まずは考えろ!なんて突き放しますか?

どれも最低ですね。今決めなくてもいいからイメージしてみようなどとファシリテーションしてください。例えば、こんなのもあるよねとか、そんなのもあるよねとか、想像できるものを出し合うのです。思い切り発散させてアイデアやイメージでいいからホワイトボードにたくさん書き出すのだ。そうなると、その多くは「それはないな~」というものでしょう。それを除いていくと、もしかするとそれらが候補になるかもしれないといういくつかに絞られるでしょう。それで十分です。そうなればイメージはそれらに集中し、それらを候補にしてどういう仕事なのか調べてみようとか、学んでみようとか、場合によっては上司がこういう仕事だよと教えてあげてもいいわけです。そんなことをするだけで、上司と部下はイメージを共有して上司はサポーターになれるわけだ。そんな入り口を設計したらいかがですか。そんなプロセスを数回経ればだんだんイメージは固まるし、ではこういう経験をしてみようなどとオファーもできるでしょう。そんなプロセスを経た部下と、ほったらかされた部下とではどれほど上司や会社に対するロイヤリティーが違ってくるのかは容易に想像できるでしょう。

 

さて、一方でもう一つ大きな別問題があります。それは新人に対してはホワイト過ぎる反面、上司である階層の人達が「ロールモデルにならない問題」です。今日本の企業では「管理職になりたくない」若者が増えています。その理由が「あんな上司のようになりたくない」。上司が仕事漬けでワークライフバランスなんて微塵も感じられないとか、結局は汗と根性で出世していくしかないのかとか、更に上位上司からのプレッシャーが強くてしんどそうとか、顧客から怒られ続ける姿を見て自分には無理と感じる、などなど。即ち、上司が「なりたくない人材像の典型」になってしまっているわけです。

あなたが管理職ならば、部下たちから見てなりたい人材像即ちロールモデルだと自信をもって言い切れますか? 多くの人達はNoと答えるでしょう。まずは、それをどのように変えられるのか考えてみてください。あなたが若かったころのあなたの上司はどうでしたか? きっと今のあなたと同じようだったのではありませんか? しかし、あなたは退職せずに今のポジションに昇格した。それは正に根性と体力で勝ち取ったのかもしれませんが、同様のことを部下が感じたら昔のあなたと違って、石の上にも三年なんて思わず、多くの人は退職してしまうでしょう。採用ー育成ーリテンションの道はそんなあなたによって壊されていきます。あなたは仕事ぶりを変えなければなりません価値観を変えなければなりません。やるべきこととやらなくてよいことを峻別しなければなりません。権限委譲を進めなければなりません。仕事の優先順位と必要なリソースと配分を考え直さなければなりません今までのやり方は忘れるのです。固定観念は捨ててください。大胆な変革を進めてください。

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新旧の混ざり合った東京佃島
会社も同じ。新旧は水と油じゃない。不思議な化学反応が起きる。
それがD&I。楽しいよ。

 

支援型リーダーシップの春

リーダーシップは多様です。こうでなければならない、ということは全くありません。実際ビジネス書などを読んでも正解は一つではないことはよく分かります。

最近感じることを少し書きますね。それは、「コラボレーション・リーダーシップ」です。一種の「支援型リーダーシップ」と言えます。ポイントを書くとこういう感じです。HBRを読んで僕なりに咀嚼して少し書きますね。

コーチやメンターのように振舞うことができる。明確な指示を出すわけではなく、的確な質問ができます。それにより部下の自主性を尊重し、気付きを促すわけです。部下は自分で考え、自分で決め、自分で行動します。

②人と人をつなぐことができる。上司の方が多様な経験をし、世間を知っていて、視座も高く、人脈もありますね。その知見を活かし、適切なコラボレーションができるように適任につなぐのです。即ち、「コラボレーションのためにコネクター」になるのです。重要なのは、「引き合わせ」と「人物保証」です。「人物保証」とは、「Aさんはこういう人でそういうことに深い知見があるから、遠慮なくアドバイスをもらうといいよ」というように信頼できる人だと保証することです。安心しますよね。

自由闊達な議論や多様な考え方を奨励する。チーム員が全員参加で意思決定に参加するプロセスをコントロールするのです。一種のファシリテータ役を演じると言ってもいいかもしれません。もちろん、議論しても全員が腹落ちする結論が出るとは限りません。スピードも重視しなければなりません。その時は、リーダーが引き取り意思決定するのです。その時重要なのは、決めたら一致団結させることです。「どういう決断を私がしても、全員協力する約束をしてほしい」と促すわけですね。議論を引き取ったら「No side」を宣言するのです。

情報にビビッドであること。チーム内の混乱や遅滞や発散など、何が起こっているのか、その原因は何なのかなど、できる限りハンズオンで事実を把握することが重要です。それにより、カオスになる前に支援の手を差し伸べることができる。カオスになってしまったあとでは、「コマンド・アンド・コントロール」即ち「率いるリーダーシップ」せざるを得なくなるからです。そうなる前に、支援することです。部下の報告を聴いているだけでは事実は分かりません。現場に降りて(ハンズオン)肌身で感じることが必要不可欠です。ところが、それをしない管理職が多いと感じます。管理職はオフィスにいて管理するもの、と勘違いしているのですね。

 

リーダーシップ論は多様ですし、時代とともに変わります。しかし、現代社会においては王道は間違いなく存在します。しかし、その当たり前ともいえる考え方すら分かっていないリーダーも多いと感じます。まずは学ぶことです。多様なインプットを得て実践することです。行動せずに未来はありません。

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季節を感じるランチは幸せを感じさせてくれる。
春ですね。もうすぐ桜も満開になる。
入学式、異動、昇格、卒業・・・新しい扉が開く
そこにはHopeがあるはずですね。行動しよう。

 

学ぶこと

誰かが僕の人生を考えてくれるわけでもなく、自ら自主的に考え、決め、自律的に生きていくしかない。そもそも人間は考えるために生まれてきた。そもそも人生を誰かに委ねたいなどと考えたこともない。

社会があり、コミュニティーがあり、自分が存在する。自分の幸せだけが成立することはあり得ない。相互補完があって初めて幸せが存在する。誰かの幸せを考える、皆の幸せを考えるから社会が成り立つ。一人一人の利他心が社会のサステナビリティ―を支える。

 

そのためには心が豊かでなければならないでしょう。人間の本質(例えば、自分は何者なのか、何のために生きているのか・・・)を考えることも必要だろう。更にどんどん思考を充実させアウトプットを増やしていくためには、上質なインプットを増やしていくしかない。その流れがリベラルアーツの重要性を際立たせているのでしょう。

私もこれからの人生を自主的に考え自立した道を進むために、少々勉強し直すことにした。とはいえ、今までも本や雑誌やウェブサイトを読み、フォーラムに参加し、常に知識や情報にはビビッドでいようとしてきた。それはそれで重要だと思うし、これからも続けたいと思うが、今年から志向を変えて、1月から若いときに戻ったような学習方法も取り入れた。「グロービス学び放題」に入学したのだ。ほぼ復習。しかし、新しい学びも多い。何より新鮮だ。いい歳の爺が何やってるの、とお思いになると思いますが、いつも新しいことにチャレンジすることは、人生に厚みを持たせると感じる。義務感でやっているわけではないので、ノルマ感もない。やりたいときに興味のあるコンテンツを学んでいる。

人生、何に時間を使うかは重要な選択。別に背伸びする必要なんてない。

 

ちなみに、「グロービス学び放題」は特に若手・中堅の人達にとても向いていると思う。ビジネスリテラシー、経営リテラシーを学んだり、キャリアや自己啓発を考えるのにも役立つ。値段も安価だしお薦めですぞ。別にグロービスの犬ではないw

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ミモザという植物は存在しないって知ってた? アカシアの一種なのです。
ギンヨウアカシアとか、パールアカシアとか、フサアカシアとかいうらしい。
僕にはそれらの区別はつきませんが・・・
街で見かけると春らしい。ぼちぼち桜も咲き始めた。

 

3/18はR・ケネディーの命日。彼の演説に思う。

僕たちの幸せは計測可能だろうか。幸せは日常に寄り添ってくれているのだろうか。ロシアはどこに向かいたいのだろうか。デフォルトにまっしぐら。失敗した計画経済に戻せば国民は幸せだとでも思っているのだろうか。悶々とする毎日。そんな時にこんな話を読んだ。

今から丁度54年前の1968年3月18日カンザス大学でR・ケネディが行った演説。1968年と言えば、3か月後の6月5日に彼は銃撃により暗殺されている。ご存じの通り、兄である大統領ジョン・F・ケネディはその5年前に同様に暗殺されている。

彼の演説は、今まさに行き過ぎた資本主義や株主至上主義を予見したような内容で、いかに卓越した政治家であるかがよく分かる。

主旨はこうだ。

「私たちはずっと前から個人の優秀さや共同体の価値を、単なるモノの量で測るようになってしまった。

この国のGDPは、8,000億ドルを越えた。しかし、もしGDPアメリカ合衆国の価値を計れるのなら、GDPには、大気汚染やたばこの広告や交通事故で出動する救急車も含まれている。

GDPには、ナパーム弾や核弾頭、街で起きた暴動を鎮圧するために武装した警察の車両も含まれている。

GDPには、玄関の特殊な鍵、囚人を囲う牢屋、森林の破壊、都市の無秩序な拡大による大自然の喪失も含まれている。

GDPには、ライフルやナイフ、子供のおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれている。

一方、GDPには、子供たちの健康や教育の質、遊ぶ喜びは入っていない。

GDPには、詩の美しさや夫婦の絆の強さ、公の議論の知性や、公務員の高潔さは入っていない。

GDPには、私たちに機転や勇気も、知恵や学びも、思いやりや国への貢献も入っていいない。

つまり、GDPは、私たちの人生を意味あるものにしてくれるものを何も測ることはできないのだ。

GDPは、私たちがアメリカ人であることを誇りに思えることについて、一切教えてくれないのだ。

もし、それがこの国において真実であるなら、世界中のどの国でもやはり真実だろう。」

 

僕たちは数字に縛られている。給与や貯金。仕事上の売り上げや利益の予算。それが満足のいく量でなくても、それが達成できなくても、地球の温暖化は進むし、戦争は止まらない。

数字で計測できないものはマネージできない。確かにそうかもしれない。しかし、計測できないものの方がはるかに大切だったりする。僕たちが真剣に向き合うべきものは、何なのだろうか。幸せって何なのだろうか。

なぜ、傲慢がまかり通るのだろうか。

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早速、人生初のIMAXで鑑賞したThe BATMAN
ゴッサムシティ―ではなく、
モスクワにBATMANがいると良いのだが・・・w
笑い事ではなく本気でそう思う。