過去から学ぶ ~孔子の言葉に驚く~

ご存じのように論語は「子曰く」で始まる。孔子の思想を孔子と弟子たちの問答を通してまとめたものであるから、「孔子先生が言うには」と始まるのだ。

最近その論語の解説本を読んだ(といってもAudibleで聴いた)。論語に触れたのは人生でそれが初めてだった。読むと不思議な感覚になる。紀元前500年ころに世界で不思議なことが起こった。孔子が生まれ、釈迦が生まれ、ソクラテスが生まれた。もちろん、彼らだけが活躍したわけではなく、それに弟子たちが続いた。いわゆる「知の爆発」という世界の変化だ。この頃って、鉄器が全世界に波及した時代。そんな時代に、世界で呼応したように思想家が生まれ、哲学が広まった。そんな大昔の彼らが説いた内容は今でも違和感なく刺さってくるのが信じられない。それは、表現を変え近代の思想に生まれ変わってきた。例えば、こんな感じだ。

「温故知新」 故きを温ねて新しきを知る 過去に起こった出来事や教えを学び、そこから新しい道理や見解を得ること。ですよね。

これはビスマルク宰相の「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 自分の経験だけに頼って判断をしてはならないという教えだ。言いたいことは通底することに気付く。

 

私がクライアントに話すことに、「意図的に行動を変えよう」「まず行動しよう。それができないと何も変わらない」がある。変わり続けることが成長だし、行動することによって新しい何かに気付き、それによって得られるものが、掛替えがないと考えているからだ。それに通じる孔子の教えがある。

「子曰く、まず行う。その言や、しかる後にそれに従う。」

まず行動しなさい。言葉は後からついてくる。まず実践するひとが尊敬できる人であり、口先ばかりの人は尊敬できない。心から、その通りだと思う。

 

また、私は「率いるリーダーシップ」を美化する人(俺についてこいとばかりに部下をすべて指示することで統制するタイプ)が作る組織を、「支配型ヒエラルキー(マシュー・サイド)と理解するが、そのタイプの人は、自分に意見する人に懲罰を与え、力で捻じ伏せ、自己陶酔し自己中心的で出世志向が強い。それは僕たちが目指すリーダーの姿とは程遠く、今の時代には全く合わない過去の遺物だと考えている。目指すべきは「尊敬型ヒエラルキーだと確信する。これにも通じる孔子の教えがある。

「子曰く、君子は義に喩り、小人は理に喩る。」

人格を磨き自己修養に努めている人物は、何が正しい生き方か、何が道理かすぐ分かる。つまらない人物は自分の利益になるかどうかばかりを気にしていて、そのことだけがすぐ分かる。小人とはつまらないさもしい生き方をしている。これも、核心を突く言葉だ。

 

更に、変化の激しい時代に、最善の解を求め悩み抜くのがリーダーの常だが、その場の空気を読んでどちらが得かばかりを考えるリーダーも多い。信念がないのだ。それに対しては、

「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同して和せず。」

立派な人格者は、人とは仲良くするが、雷同(考えもなく他の説に同調すること)することはないが、つまらない人間はすぐ雷同するが、ここぞという時に協力しない。

すぐ人と群れて流されていく人なのか、自分の信じる正しい道を何と言われようがそれを貫くのかの違いが明らかだ。

 

本質はずっと変わらない。しかし、愚かな人間はそれに向き合わない。学ばない。考えない。

王道を歩くことが重要なのだ。本道を学んでから変化に対応する力をつけることが大切だ。王道を歩くが、環境が変われば、または、変わりそうならば瞬時に道を変えればいい。王道が分からない人にはそれができない。学ぶべきことはたくさんある。

春が来る。それはずっと変わらない。
その変わらないサイクルが僕たちの気持ちを整えてくれるようだ。
さあ、次のステップに進もう。