ジャニー喜多川氏事件から思う

少し前の話です。

8/4、訪日した国連人権理事会の専門家が記者会見しました。多くの方がご覧になったと思います。僕がとても印象に残っているコメントがあります。ご存じの通り、ジャニー喜多川氏の性的虐待は、はるか昔らメディアは知っていたにもかかわらず、見て見ぬ振りをしていたのですが、その理由の如何は別にして、彼ら専門家はそのことについて「メディアは隠ぺいに加担した」と表現したのです。加担したという責任を問うているわけです。私は日本人の感覚との違いを強く感じました。日本人は黙っている、即ち何もしないことに罪の意識はほぼありません。いえ、能動的に何もしない方が得だと考えているのです。

「何もしない方が得な日本(太田肇著)」を読んだときに僕は日本人のそのような価値観を恥ずかしく感じました。同氏はそれを「消極的利己主義」「全体主義パラドックスと呼んでいます。

ジャニー喜多川さんの事件に対するメディアの対応は、「真実を報道する」というメディアの魂を自ら捨てた事案のはずで、ジャニー氏の行為を今さら糾弾すること自体がとても情けないと感じてほしいものです。今までなぜメディアが何もしなかったのかに注目し報道することがせめてもの責任ではないのかと、強く思います。

僕は元々メディアを信じていません。酷い言い方をすれば、売るために報道しているのであって、事実やその裏にある本質を共有することによって社会をより良くするなどという志など感じないからです。嘘は避けるとしても、注目されるために描いた自分のシナリオに沿って、都合の良いところだけ摘まんで繋げて物語を書いている(演出している)と言わざるを得ない記事が目に余ります。メディアに踊らされることのバカらしさを情けなく感じますし、結局は読者・視聴者自身が自分が感じた勝手なシナリオにフィットする部分だけを摘んでいる事実を知っていて、自分でも自分のことに反吐が出ているからです。所詮人間なんてそんなもので、そうだからメディアが商業的に存在できているのでしょう。

もちろん、尊敬すべきメディアも少しは存在します。全てを悪く言うつもりはありません。しかし、メディアは自分の存在意義を見つめ直すべきだと思います。

加工したくないものです