ヒモ男がパーソナリティーをオープンにする暴挙

三浦しおんさんのエッセーを読んでいたら、昔のことを思い出した。

僕がまだ学生だった頃、よく駅前あたりで外人らしき若者が、歩く人に道を聞いていた。皆に無視されるので、英語が分からないのかな、困ってるだろうなと思い、僕から進んで声をかけた。当時の僕は「What can I do for you?」ではなく、「何かお困りですか?」で(笑)

そして、その外国人はニコッと笑い、僕に聖書を薦めるのでした。もちろん日本語で。なんだ、宗教の勧誘かよ。皆避けるわけだ。僕も「いや、結構」と足早にその場を離れるのでした。実は似たようなシーンが複数回あり、僕は気安く声をかけることを止めたのでした。

別のパターンでは、バスから降りたときに急な雨が降り出し、幸い傘を持っていた僕は傘をさして歩き始めた。僕の前に降りた女性は傘を差さずに歩いている。そこで僕は「入りませんか?」と相合傘を勧めた。彼女は「いや結構です」と足早に駆けていったのでした。怪しく見えたのかな? いや、違うなと自分を納得させた。日本人は見知らぬ他者に気安く甘えることはしない。遠慮深いと言い換えてもいい。そういう人種なんだと。やっぱり、気安く声をかけることは止めよう。そんな、ちょっとしたエピソードは僕の人生に多少は影響したのだと思う。

そのエッセーによると、しおんさんは気安く声を掛けられる側の人とのこと。ご自分のエピソードも笑えるが、こんな話もある。嘘か本当かしおんさんの知人も、彼女と同様になぜか見知らぬ人によく気安く話しかけられるらしい。「渋谷のスクランブル交差点ですれ違いざまにナンパしてきた男性と結婚したり」「居酒屋で隣のテーブルに座ってた男があとをついてきたので交際したり」…(笑) そのオチが笑える。「そしてどちらの男もヒモ化した」だって(爆笑)

僕の行動はどちらかというと、そのヒモ側だったのかもしれない。いや違う。僕のは下心があるわけでもなく、シンプルに親切心だ。それは強調しておきたい(笑)

 

 

そんな自己開示をしたところで、ここからが本題です。前置きが長くてすいません。

人生という時の流れの中でいろいろな経験をしてきました。喜びがあったり、失敗や反省があったり、落胆や悲しみもありました。何を学び何を捨てたのか。何を大切に生きてきたのか。そんな思いを整理してみたい衝動にかられました。

 

そんなアプローチをどのように表現できるのだろうか。思考や価値観や行動の特長を列挙すれば何が見えるのかもしれえない。覚えている間に言語化しておこうと思いました。いずれ記憶は怪しくなるし、辻褄が合わなくなってくるだろう。意味なんてない。自分を俯瞰的に見ることがどれだけできるだろうか。これは、かなり深い自己開示だと思います。同時に、それがバイアスまみれだということを露呈することになると思います。相当面の皮が厚くなければできないと思います。

私って何者なのか?という正解のない答えを探すことは、実は真剣に人生に向き合うことにつながるのではないかと感じます。

ともかく、挑戦してみたいと思いました。きっとグダグダと思いますし、お付き合いいただくことも申し訳ないので、是非受け流してください。

 

仲間を大切に思う。

仲間がエナジャイズされていることが何より大切。

まわりの人たちが楽しそうにしている姿を見たい。

誰かのために、を考える。

利他心は高いし、善良で社会正義を大切に思っているが、同時に自助努力も求める。

思考・検討のフレームワークの見本を見せて部下に残したかった。

協力し合うチームを作ることがすべてだと思ってきた。

皆が瞳を光らせて働く姿を見るのが楽しかった。

心が通じ合わないことは耐えられないくらい寂しかった。

でも、それは僕の勝手なのだと知った。

盛り上がらない時間が耐えられない。手を変え品を変える悪あがきをするが、失敗も多い。盛り上がらない時間をなんでそのまま受け止められないんだろう。

それが小心ゆえだと、あとから気付いた。

プライドを大切にする。存在に自信を持ちたい。でも、それは時に苦しかったのかもしれない。悪あがきは僕にとってどのような影響を与えてきたんだろう。

やるならエッジを利かせたい。

曖昧で終わらせたくない。

丸く収めたいとは思わなかった。

分かりやすい表現で言語化して伝えたいと思いチャレンジしてきた。

躊躇はしたくない。迷ったら進む。

後悔はしたくない。

お粗末な自分を隠す必要はない。むしろ率先して晒してきた。これもそう。

結局、小心なのだと思う。だからちゃんと準備するのだと思う。審美性を求めるのもそのせいかもしれない。

陽気に見えるかもしれないが、結構真剣でそして頑固だと思う。それも小心ゆえなのかもしれない。

革新的でいたいと思ってきた。クリエイティビティへの憧れがあるのだと思う。他者から見ると風変りに見えていたかもしれない。多少自覚はある。

イデアはたくさんある方がいいと思う。それを僕から取り上げて自分のものにされても構わない。本質を理解していないから途中で投げ出されるケースを見てきた。それが一番さびしい。でも、決して責めはしない。

群れたくない。結局一人で闘っちゃう。それは結局は僕のストレスになってきたかも。性格は変わりそうもない。

リスクを取ることは厭わない。じっとしているよりずっといい。そうして解決してきた。きっと自己効力が高いのだと思う。もちろん、失敗がなかったわけじゃない。

謙虚でありたい。意識せずとも自然とそうなるようにいたいもの。でも、僕のことを謙虚だと思わない人も多いと思う。

押しつけがましいと反省すること多々あり。それも小心さゆえだろう。

受け止める力が足りないのかもしれない。それも最近気が付いた。

楽観的に生きたい。しかし自然にはできず、悲観的に感じてしまう自分との闘い。

他者の気持ちに寄り添いたい。しかし、冷たい自分もいる。それは常に揺れ動く。

上質なインプットは自分で選択する。でも、自分を鼓舞しないと取りに行かなくなってきたかもしれない。これはとても恐ろしい。

テキパキ生きたい。ちんたらやりたくない。

レイドバックな気分で生きたいが、できそうでできない。なんだかいつもせっかち。

空気のように時間に溶け込みたいが、いつも時間と競争してしまう。

チャンスは必ずある。それは何かを考えるのが好き。そして、それはほぼ実行してきた。成功もあれば失敗もある。失敗も楽しいエピソード。

ダメだと感じたら作戦をすぐ変え、次に気持ちをもっていく。固執はせず考え直す。そうありたい、そうすべきとずっと思ってきた。

上司の盲目的なフォロワーであったことはないと思う。間違っていると思ったら必ず自分の意見を言ってきた。その代わり、50代に4回クビになった(正しくはクビだと本気で言われた)。

それでめげたことは一度もない。

仕事においては、やりたいことよりやるべきことばかり考えて行動してきた。

それは、重いことだったり、しんどいこと、面倒なことが多かったが、逃げずに向き合ってきたつもりだ。自分に課してきた行動だと言える。使命、義務だと。

その結果、結局は楽しい人生を送ることができた。後悔はない。

これからのことは分からない。

どうやって人生を終えるべきかなんて考えない。いずれそんな思考になるときも来るんでしょうね。

 

やっぱり、グダグダになっちゃいました。とほほ。

実はコーチングしていて、クライアントの皆さんに必ずと言っていいほど人生観や仕事観を聴くようにしています。ほとんどの方が考えたことがないと言語化することに四苦八苦します。すごく深いことをおっしゃる方もいるしそうでない方もいます。

自己開示が明確な方は自分を見つめることに慣れていると感じますし、ということは内省を深く行える可能性が高いだろうと推測できますし、他者に対しても自分のことを上手く表現して理解してもらうコミュニケーションができている可能性が高いだろうと推測できます。

言語化できていると向き合いやすいし、伝えやすいからです。人は皆個性的です。それを理解しようとするかどうかも個性です。しかし、人間関係をよりポジティブに豊かにするためには、理解し合うことが必要不可欠でしょう。そのために必要なのが自己開示だと思います。

冒頭のどうでもいい自己開示みたいなのじゃないですよ。

涼しいとこ行きた~い