自分の過ちを認めるか それは人間の本質を表わす恐ろしい事実

失敗の科学(マシュー・サイド著)」を読んでいる。実に人間の本質を突く鋭い指摘がたくさん登場する。少し紹介しよう。

「多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突きつけられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。次から次へと都合のいい言い訳をして、自分を正当化してしまうのだ。ときには事実を完全に無視してしまうことすらある」

これは気付きにくいことかもしれない。でも、実は日常的に誰しも行っている思い込みとも言える。本能が自分を守ろうとしているのかもしれない。自分に都合の良いストーリーをあたかも真実のように作り上げてしまう感覚に近いのだろう。

 

人はなぜそんなことをしてしまうのだろうか。「カギとなるのは、『認知的不協和』だ。これはフェスティンガー氏(ミネソタ大学の研究者)が提唱した概念で、自分の信念と事実が矛盾している状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレス状態を指す。人はたいてい、自分は頭が良くて筋の通った人間だと思っている自分の判断は正しくて、簡単にはだまされたりしないと信じている。だからこそ、その信念に反する事実が出てきたときに、自尊心が脅かされ、おかしなことになってしまう。問題が深刻な場合はとくにそうだ。矛盾が大きすぎて心の中で収拾がつかず、苦痛を感じる」

「そんな状態に陥ったときの解決策はふたつだ。一つ目は、自分の信念が間違っていたと認める方法。しかしこれが難しい。理由は簡単だ、怖いのだ。自分は思っていたほど有能ではなかったと認めることが

「そこで出てくるのが二つ目の解決策、否定だ。事実をあるがままに受け入れず、自分に都合のいい解釈を付ける。あるいは事実を完全に無視したり、忘れたりしてしまう。そうすれば、信念を貫き通せる。ほら私は正しかった! だまされてなんかいない!」

このような「認知的不協和」は誰でも持つ人間の特徴だ。議論をすればするほどディフェンシブになり、ときに他者との無毛な溝を深めるし、友人を失うかもしれない。事実は歪み間違った認識を心から真実と信じ込む。「人は自分の信念にしがみつけばしがみつくほど、相反する事実をゆがめてしまう」これは悪意はないがとても恐ろしい結果を招いてしまうでしょう。

 

間違いを素直に認められる人は少ない。悲しいけれど、それが人間だ。前にも書いたような気がするが、僕は仕事を進める上で、多様な人を説得しなければならない局面がたくさんあった。幸い多くのケースは相手は納得してくれたが、上手くいかない時も何度もあった。今考えると「認知的不協和」だったのだと分かる。説得しようとすれば、相手はディフェンシブになる。説得されまいと身体が反応してしまうのだ。そこで、的確な行動は「説得」ではなく「対話」だったのだ。私は説得しようともがいた。もがけばもがくほど溝は深まった。もし僕が対話の姿勢で意見交換していたら違った結果になっただろうと推測できる。

 

また、何回か書いた「不祥事」に対してもこの話は鋭い真実を提供していると思う。

多くの不祥事は事実に正対していないことから起きている。もちろん、なぜ正対できないかの論点が必要だし、そのことは以前にも述べた。そもそも、事実をないがしろにすることを許さない価値観が何より重要だと思う。一種の宗教感覚のような感覚、絶対的正義感という感覚と言ってもいいかもしれない。

職場に必要な価値観の一つが、「事実に対して誠実であれ。科学に対して誠実であれ。」ではないだろうか。

絶対にやってはならないことは、「見つめるべきことから目を逸らすこと。都合の悪いことに頬かむりすること。自分の作ったストーリーに必要な事実だけピックアップすること。」だと思う。

実は、これらができない人は想像以上に多い。だから忘れないでほしい。客観的であることは正義への道なのだ。

人間は何と愚かなんだろうか。原爆が悪いと言っているわけじゃない。
人間は醜い。皆自分のことしか考えちゃいない。