この歳になって教養のなさを反省する毎日です。例えば、歴史や哲学。前にも書きましたが、出口さんの著作である「哲学と宗教全史」を読んで、砂漠が水を吸い込むように学ぶ楽しさを味わったり、ウォーキングしながらその手のポッドキャストのコンテンツを聴き、学んで感動したりしています。そんなエピソードを一つ書きますね。
ソクラテスはご存じですよね。紀元前400年くらい前まで生きていたギリシャの哲学者です。実は彼は著作を残していないので、言われていることがどれだけ本当なのかはよく分かりません。ちなみに著作を残していないのは、キリストやムハンマドなどもそうなんですよ。要は、弟子たちが(本当かどうかは分からないが)教えを書き残したのです。
例えば、ソクラテスの言葉として有名なのが「無知の知」ですね。何も知らないことを自覚する人は、しない人より優れているという意味ですが、彼はそんなことを言っていないというのが最近の研究の主流になっているらしい。曰く、「不知の認識」すなわち、知らないことを認識することが大切だ、と言いたいらしい。それはさておき、ソクラテスは結局処刑されてしまいます。要は、本質を追求した人は社会に受け入れられたわけではないのです。
さて、こんな話があります。真っ暗闇にが象がいたとします。何人かが何も知らずにそれに触ります。誰も、世の中に象という存在がいることを知りません。ある人に聞いたら、足が凄く太い生き物だと説明します。別の人は、鼻が凄く長いと。別の人は耳が大きいと。更に、皮膚が凄く固いと。それぞれが様々な表現でどのような生き物か説明します。すべて正しいが、よく分からない。各人は他者の言うことに対して「そんな生き物ではない」と思います。
そんなことは、僕たちのビジネスでもたくさん経験していませんか? 見ているビジネスの状況は皆違います。自分の見ているビジネス環境・状況が正しいと思っている。しかし、それは一面でしかない。そして、もしかしたら各人がバイアスを持っていて、そう思い込んでいるだけなのかもしれないし、思っているものと違うものは、無意識に見ていないのかもしれない(「正常性バイアス」都合の悪いものは見たくない)。
例えば、正義や悪も一つではない。プーチンの正義は僕たちの正義とは全然違う。ロシア国民の多くは、僕たちとは全く違う景色を見ているのです。もしかすると、僕たちだってバイアスにまみれているのかもしれないのです。
即ち、正義や悪という一見普遍的なものも何が正解なのかなんて分からない。マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」にも似たような話があったような記憶があります。
さて、想像してみましょう。何が正解かなど分かるわけがない状況で、リーダーはどう振る舞うべきなのでしょうか。ファクトとデータで論じればいい、って? そのファクトだってバイアスかもしれませんよ。都合の良いデータだけ見ているのかもしれませんよ。それに、データなんかほとんどないことばかりですよ。データが集まるまで待つのですか? いつまで? それでいいんですか?
状況は時々刻々変わっていきます。時間がたてばチャンスはなくなる。リカバリーにより多額なコストがかかる。さ、今すぐ決めなさい!
何が正解がわからないことばかりなのに、あなたは決めなければならない。鼻が大きな何かって敵ですか味方ですか? どうやって判断するのですか?
それでもあなたは判断しなければならないのです。
戦略判断には正解などないのです。正解など分からなくても決める。それがリーダーの仕事です。
リーダーは判断をしなければならない。それは間違いない。さあ、どう向き合うべきなのでしょうか。
見る景色は人により違う、経験も違う、感度も違う。あなたは学び続け(実際経験をすることだけでなく、本を読み話を聴き疑似体験することも含めて)、センスを磨ぎ続けるしかないのです。
そして、「きっとこうだろう、やってみよう!」 と決めるしかないのです。それは正解ではないかもしれない。しかし、多くの部下が、賭けてみようと思えるリーダーの物語(ナラティブ)に共感すれば、賭けは成立するのです。
何が善であるか絶え間なく「吟味」して自分の生を正しく導き続けたソクラテス。リーダーの使命も同じだと思いませんか?
また、吟味を続けるということは、「より良く生きる」ということに他なりません。即ち、考え続けることはウェルビーイングに必要不可欠なのだと思います。流されない人生。自分で考え自分で決める。吟味の先に自立があり、自立の先にウェルビーイングがある。そう思うのです。
僕の考えは、あまりに薄っぺらく説得力もない。それは間違いない。しかし、それが僕の吟味だと思う(吟味の限界?)。
歴史や言い伝えらえているエピソードなどをヒントにして、僕が勝手に考えているのです。現代のビジネスシーンに置き換えたり、混沌とした組織の感情の渦を想像してみたり、経験の浅い社会人を主人公にしてみたりして、僕自身の経験や直観が語りたがっている物語り(ナラティブ)を創造しているのです。
語りたいという気持ちを想像できない人も多いでしょうね。僕なりに表現すると、年長者の奉仕、貢献、利他心・・・う~ん、どれもぴったりしないかもしれませんが、これからもっともっと成長・活躍してほしいビジネスパーソンに対して少しでも役に立ちたいのです。それは一種の押し付け、ごう慢なのかもしれません。いつもきっとそうだろうなと感じています。否定はしません。利他心と利己心は表裏一体だと思います。ペアなのかもしれません。
そんな気持ちは会社勤めをしていた時から、実はずっとありました。誰かの役に立ちたい。特に若い人の役に立ちたい。違う景色に気付いてもらいたい。自分とは何なのかを考えてもらいたい。変化から逃げないでもらいたい。見たくないものを見てもらいたい・・・
そう、それって「吟味を続けること」なのだ。「吟味」って何? しっかり調べて確かめること? いや、それだけでは何かが足りない。そう、本質を確かめるために考え続けることなのだと思う。ソクラテスに笑われるかもね(^_-)-☆