人生は「ガチャ」で決まるのか

「World Giving Index」(イギリスの慈善団体の調査)によると、「寄付や人助けにどれくらい積極的か」というランキングで、日本は対象114ヵ国中最下位だった。

駒沢大学准教授の井上さんは「日本は『貧しい人を助けないでいい』という人が多い一方で、『お金持ちを許せない』という人も多い。どちらも気に食わないんです。どうも、まともに働いて普通に生活している人が一番偉くて、貧しい人に対しては『努力が足りない』と見ているし、お金持ちは『どうせ悪いことをしている』と見ているようです」と仰る。

例えばそのような偏見はアメリカの方が強そうだと感じるが、「(日本は)自分と立場の違う人への偏見が強い。それはアメリカに比べても激しくて、例えば、アメリカでは伝統的にお金持ちは憧れの存在で、事業に成功して富を築いた人は尊敬されますが、日本はそうではありません。ホームレスや生活保護を受けている人たちへの風当たりも、日本は非常に強いです」と分析している。

 

成功するかどうかは運で決まるのだろうか。サンデル教授の新作「実力も運のうち 能力主義は正義か?」はまだ読んでいませんが、中に「『大学教育を受けられるか受けられないか』がクリティカルポイントで、それには能力というより親次第という面がある。『親のおかげで大学に行った人が、それなりに頑張ってお金持ちになったからと言って、偉そうなことを言うのはおかしい」という論点がある。つまり子供は親を選べず、どのような環境で育つかで人生の多くは決まってしまうのだろうか、という論点ですね。本人の努力で決まるんだろうと思っても、お金がなければ進学できないし、その前に塾にも行けないし、参考書も買えない。家計を助けるために朝も夕方も働き、クラブ活動もできないし、勉強する時間もないかもしれない。勉強なんて意味はない、そんな時間があったら働けとずっと言われて育つ人もいる。自分の力ではどうしようもないことはたくさんある。特に子供であればいかんともしがたい。つまり、人生は運しだいということになる。井上氏は「『貧しい家庭から這い上がって成功した』という人も、もちろん本人が努力した結果とは思いますが、『努力する能力をどこかで身につけることに成功した』という意味で、究極的にはやはり運が良かったのではないかとも思うんです」

即ち「人生はすべてガチャで決まる」たまたまクラス替えで出会ったいじめっ子に、たまたまいじめのきっかけとなるシャツのほころびを見られたことから、人生が変わったりもする。昇格選抜の前に異動命令が出て、行った先の上司は子飼いを優先し、チャンスを失い、我慢して努力をして成果を出していよいよという時にまた異動、などという話もある。その逆で運の良い人もいる。出会いや、タイミング。それは本人の努力ではない。しかし、それを逃さなかったセンスや勇気がその影にはきっとあったのだろう。一歩踏み出せるかどうか、心に飛び込めるかどうか、チャンスを得られない人と得られる人の違いは大きい。しかし、その素養もどこかで運よく得られたものなのかもしれない。人生は「ガチャ」なのだろうか。

 

ポイントとして「出会い」を大切にすることを上げたい。何度も私のブログに登場する出口さんの「本を読め、人に会え、旅に出ろ」という言葉に、私は強く共感している。スイッチを入れるきっかけは、バッターボックスに立つ数でも決まるはずだ。鈍感な人でも、打率の低い人でもヒーローになり得るように、覚醒することができるはずだ。

 

失敗している人を指さし「自己責任」だと叩く人がとても多い。ネットではそんな書き込みで溢れている。あなたは自分の能力によって成功したのですか? 運がよかっただけでしょ。それなのに失敗した人を叩き、ざまあみろ、自分が悪いんだと蔑む。最低ですね。自分を高みに置くことで優越感を得る。人を蔑むことでマウントを取って留飲を下げている。もちろん自業自得という価値観は大切だ。努力した人が報われる社会にしたいものだと思う。しかし、上司の前では頑張っている振りをして、いなくなればサボるひともたくさんいる。私が学生時代アルバイトをしていて、同僚は毎日遅刻をしてきた。しかし、怒られるわけでも注意されるわけでもなく、どういうこと?と不条理を感じていたところ、給料日に彼はその分バイト料を減らされていたことを知り、お天道様はちゃんと見ていると心の中だけで留飲を下げた経験がある。

 

貧しい人を国が支援すべきかどうか。日本は主要国の中で最も「そんなことをすべきではない「貧しいのは自己責任だ」という比率が高く40%にもなるのだそうだ。もちろん「自己責任」という価値観は大切だと思う。他人に迷惑をかけたくないから自分で何とかするとか、努力によって成し遂げられることはあると思ったり、自分を律したり。しかし、上記のように努力ではどうしようもないことも多いことも間違いはないのに、そう思ってしまう日本人。なんだか嫌な国民性ですね。

 

「自己責任」を過度に振りかざす人は、もしかすると、自分が羨むような成功を収めている人に対しては、羨(うらや)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み、せめて皮肉をいうことで留飲を下げているという弱者の情けない行動と、自分より失敗をしている人を蔑みマウントを取る弱者の情けない行動、の両面を持っているのではないだろうか。何れも、自分と向き合っていない、即ち「自分は何者なのか」を考えたことがない証左なのではないだろうか。深く向き合えば、決してそのような態度で入れれないと思うのだ。

 

人生って、何かに抗うことだと感じる時がある。流れに身を任せるのではなく、流れを変える行動をとること。それには勇気がいるし、リスクはあるし、疲れるし、面倒だし、共感されないかもしれない。でも、「正しい道は何なのか」「自分の使命は何なのか」を考え続ける人生が人を成長させるのではないだろうか。それは妬むことや蔑むことは真逆の価値観だと感じる。すべて「自分は何者なのか」が原点になるはずだ。

夏の名残り。
9月の公園は寂しい。