テクノロジーと倫理

Googleで「地球温暖化」と検索すると、問題意識の高い人にはエビデンス情報やその対策情報が出てきて、懐疑的な人には陰謀論などの情報が先に出てくる。確かに、そうかもしれない。

即ち、個人個人に対して興味が持てる情報を優先して提供するわけだ。それは言うまでもなく、PVを増やし広告収入を増やすためなわけ。

考えてみてください。そうだとすると、プラットフォーマー主観を誘導していることになってしまう。攻撃的な情報に興味のある人には更に攻撃的な情報が差し込まれる。その中にはフェイクも多いかもしれない。客観って何? 情報がフィルタリングされている。便利ではあるが、情報操作され情報の奴隷になり、知らない間に洗脳されてしまっているかもしれない。プラットフォーマーは勝手に僕の行動をハックし、嗜好を理解し、思考をも理解する。そして、もっと知りたくなる情報を選別して提供する。それは知的好奇心を満たすには好都合ではあるが、思考を操作されていることと同じ。

2年くらい前に問題になったが、投票行動だって操作できる。ということは国策も操作できることを意味してしまう。

ハリウッド映画にありがちな、AIが社会をコントロールする世界はSFではなくなりつつある。Meta(旧Facebook)が世界最速のAIスパコンを開発中だ。その先には恐ろしい世界が待っているかもしれない。

テクノロジーと倫理は両立させなければならない最も大きな課題だと感じる。

我々が目にするロシアのウクライナ侵攻情報も選別されているかもしれない。

f:id:taka-seed:20220305132016j:plain

先日観に行った「オペレーション・ミンスミート」。その数日前に観た数年前の作品「1917命を懸けた伝令」 共に戦争映画。両方とも二度と戦争はしてはならないと胸に刻む作品。多くの人がそう感じるだろう。しかし、戦争のない世界は全く訪れていない。後者のラストシーンは確かこうだった。「人間は最後の一人になるまで戦い続ける」 
なんと愚かな生き物だろう。