経営責任って何?

社長の謝罪が続きます。みずほFGの坂井社長は、傘下のみずほ銀行で続いたシステム障害に対して、株主総会で謝罪したのはつい最近のことです。みずほ銀行の障害は、遡れば勘定系刷新の大プロジェクトを何度もサービスインを延期したところから始まり、今年の2月から3月にかけても何度も障害を起こし、銀行業務の血脈ともいえるシステムの信頼を失墜させたとして、糾弾されてきたわけです。その責任を取り、坂井社長が4月に銀行協会の会長になる予定を見送り、銀行の頭取交代人事も急遽中止しましたね。

そして、先日の三菱電機の杉山社長が過去から続いていた検査不正の責任を取って、辞任することを発表しました。それが、株主総会直後であり、その席では何も説明すらなかったことから、情報開示に後ろ向きな印象が致命的になった印象です。

 

経営責任とガバナンス責任とは何だろうか。

システム開発の実態を社長が分かるのだろうか。検査の実態を社長が分かるのだろうか。もちろんNOだ。しかし、責任を取らなければならない。考えてみてほしい。トランプ氏が大統領時代に責任を取って辞任しただろうか。担当大臣なり幹部なりを首にしただけだ。安倍氏は責任を取っただろうか。頬被りして時がたつのを待っているだけだ。

 

企業は株主のものという株主至上主義は過去のものになりつつあります。社員やビジネスパートナー、社会などなど多くのステークホルダーすべてを意識し経営しなければなりません。企業はそのすべてのステークホルダーのために利益を出し投資をし成長していかなければなりません。そうしなければ、社会価値を発揮し続けられないからですね。しかし、そうし続けるためには、誰かの為ではなく、ステークホルダー間の利害をバランシングさせ、企業が正しくオペレーションできているのかどうかを監督しなけらばなりません。もちろんオペレーションしている本人ではない三者が行わなければなりません。ステークホルダーは第三者の報告だから信頼するわけです。

 

一方経営責任とは何なのだろうか。ガバナンスが、企業が正しく機能するための監督機能だとするならば、経営責任とは監督責任を果たすことになります。即ち、取締役が経営責任を一意に担うことになります。事実、取締役は株主総会で選任されます。即ち、企業内の密室では決められません。その人たちがちゃんと監督して企業を機能させてください、できなければあなたたちの責任ですよ、という考え方ですよね。即ち、株主の代理としてちゃんと監督してくれ、ということです。しかし、考えてみてください。日本の企業のほとんどすべては、現場のたたき上げ、即ち営業や技術や研究所などで結果を残して評価されて昇格してきた人たちが、役員や社長になりますよね。現場で実際仕事をしてきて、事実を良く知っている人たち即ち事業執行のプロの人たちです。その人たちの一部が取締役を兼任しています。言い換えれば、現場の長が監督もしているのです。執行と監督の矛盾する二役を演じているわけです。経営責任を、現場を監督できなかった私の責任とするならば、どちらの責任ですか? 日本人は、「社長を連れてこい!」とか「社長に責任を取らせろ!」とか言いますよね。それってどちらですか? 

 

海外では当たり前のことですが、CEOは別にしてCOOやCXOは〇〇責任者と言われても、取締役ではない人がほどんどです。取締役のほとんどが社外取締役の企業が多いのではないでしょうか。社長が責任を取って退任しますと言っても、取締役の退任は株主総会での決議がなければならないわけで、先日の東芝のようにわざわざ臨時の株主総会開催しなければ交代はできません。即日退任できるのは、執行役としての社長という役目だけです。ということは、経営責任というのは、取締役ではなく、社長という最高執行責任者が持たなければならないものということになります。

 

先ほどのように、取締役が検査オペレーションの実態を知っているわけでもありませんし、それに普段から責任を持っているわけではありません。それは現場の責任者の責任です。しかし、取締役はそれが機能できるような組織構造や意思決定構造が構築されているのか、それをリードできる経営層がアサインされているのか、などを監督する責任を持つことになります。

 

コーポレートガバナンスコードというものがありますね。コードとは規則のことですが、この場合はそれほどきついものではなく、緩い規則、考え方のようなものと理解します。東京証券取引所が制定した通り、上場企業に向けたものです。即ち株主を意識したものですが、実はその中に「株主以外のステークホルダーとの適切な協働」が含まれています。即ち、ステークホルダーとの関係を理解した上で、透明で適切な意思決定・企業運営をするために必要な仕組みを定義しているのです。

 

深い階層構造、ノルマ達成のプレッシャー、減点主義、情実人事、評価の不透明感、出世するためには都合の悪い情報は見せたくない感情、知らなかったで逃げられる事実、失敗やリスクや障害を報告すると叱責される事実、誰のために働いているのかの価値観の欠如、倫理観より自分の利益・組織の利益、上司に対する不信感、上司や幹部の価値観は全く分からないなどなど。日本の企業は前時代的価値観を引きずっているムラ社会そのもののような気にもなります。規模こそ巨大でも、中身はムラそのもの。執行とガバナンスの何たるかすら分かっていない。そんな企業が多いのかもしれません。

 

今から20年以上前、ある品質保証の部門長にとてもお世話になりました。彼はその時点で定年前の大先輩。工場内でも大御所的存在で各製品開発部門から一目も二目も置かれていました。私はある重要顧客に対する担当営業部門長で、障害対応を工場と共に行っていた際、彼が乗り出してくれてとかく縦割りで動きの遅い工場を束ねてくれたのでした。顧客フォーカスの精神、品質に対する執着チームワーク技術者の責任・・・彼が発するメッセージは技術者の心を突き動かしました。彼の品質に対するこだわりは技術者のプライドに火をつけたのでした。

 

以前にこんな話もありました。私がある新任の品質管理部門長のメンターをしていた時のことです。納期や予算を守ろうとする顧客フロント部門と、ぎりぎりのせめぎ合いをしている製造部門、その狭間で、厳密な線引きをしなければならない品質保証部門。出荷を止めるべきところを、いいから出荷しろ、顧客には話を付けるという顧客フロント。彼はあるべき姿を突き通すべきですね。しかし、現実を前にすると迷いが出てしまう。何と言われようが守るべきことは譲らない。それが存在意義でないか。そんな議論をしたことを思い出します。何のために品質保証をするのか。すべて顧客のためですよね。顧客との信頼関係があるから会社が存在し得る。それを自ら壊すことは、ネゴの対象になり得ない最重要価値観であるはずです。予算が未達になるとか、自分の評価が下がるなどということは、どうでもよいことなのです。その強い意志さえあれば、三菱にはなっていなかった。

 

決して個人の強い意志だけに委ねてはなりません。組織の強い意志会社の強い意志、それは文化であり、風土であり、理念であり、プライドです。別に血判状が必要なことではありません。企業の最も重要な土台です。土台の弱い企業は必ずいつか揺らぎを始めます。その揺らぎは気付かないうちに大きな振幅となり、社員が気付いた時には柱は折れかけ、屋台骨は腐り始めています自然死への道はそうして進んでいくのです。土台を修復すること、これは身体でいうなら手術ではなく、根本的な治療を意味します。医師のアドバイスに従い、漢方薬でも飲んで、怠惰な日常を見直し、生活習慣を改善し、トレーニングをして筋肉を増強することを意味します。そうです、たやすく改善できることではないのです。しかし、それ以外に土台を再び強固にすることはできません。

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雨の都。大手町で二回目のワクチン接種。次のアポまで1時間。ググってみたらその場所まで徒歩で1時間3分。躊躇なく歩いた。ビショビショになったけどね。しかし、人通りがあまりに少なくとても淋しい都だったな。