「シティーポップ」で素敵な朝を迎える

日本国内で独自の進化を遂げた「ティーポップ」が今海外で見直されているらしい。

ギターの軽いカッティングなどとてもお洒落な空気を醸し出す。日本オリジナルと言われているが、実は北米で広まったAORの影響をたくさん受けていると思うし、僕も70年代後半から80年代は、Bobby CaldwellやBoz Scaggs、Bill LaBountyなどは大のお気に入りだった。近年皆さんが聞いたことのある曲イメージは、ホンダ・ヴェゼル前モデルのCMソングのあの軽い曲がその感じ。あの曲は好きだったな。ホンダはSUVのイメージを変えたかったんでしょうね。お洒落にね。その目論見は、あの曲で成功したんだと思う。

この竹内マリアの非公式動画は、2000万回以上再生された。アジアのミュージシャンが北米で注目されたのは、坂本九BTSだけと言ってもいいが、日本のシティーポップがアメリカでスポットライトを浴びる日も近いかもしれない。

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ビスマルクと歴史

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

という言葉を知っていますか?

これはプロイセン王国ドイツ帝国で鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルク(1815-1898)の言葉です。

意味はこんな感じです。自分が失敗を犯して初めて自らの知として蓄積され、二度と同じ過ちを犯さない、のは当たり前のことで、どんな愚かな人でもそうするでしょう。しかし、歴史を辿れば愚かな過ちは枚挙にいとまがないほど存在していて、ケーススタディーには事欠かないわけで、賢者は形式知されたそれらを学び、決して過ちを犯さない、ということを示していると思います。

実は、彼が行って言葉は正確には「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」だったそうです。過去の他人の経験とは歴史そのものなわけでそう置き換えたのでしょうね。

前にも書きましたが、ビジネスにおいては形式知がものを言うわけです。なぜ過去に犯した失敗と同じことをまたやってしまうのか。私も何度も見てきました。なぜ人は学ばないのか。

大きな原因は、ミスをミスと認めず、直視せずに流してきたこと。それがなぜ問題なのか。それは・・・、それにより決して形式知化されることがないからです。なぜ失敗をしたのかを客観的に分析し、言語化して残し、後継者に引き継いでいくことによる、知の蓄積が競争優位の源泉なのに、それを捨てているのと同じです。

皆、失敗を認めたくないし、掘り返されたくない。周りの人も可哀想だと思ってしまう。それは損失以外の何物でもありません。失敗は誰でにでもあるし、そうしてしまったのは反省して二度と同じ過ちを犯さなければいい。それを残すことが組織への貢献であり、無形資産である、という価値観を定着させなければなりません。

それはリーダーの務めですね。知の集積は時間を要します。小さな努力と利他心の積み重ねです。その歴史が組織を強くするし、カルチャーとして定着する。言うまでもなく、強い組織にはそれがある。自分と向き合う勇気がある。

皆のために汗をかく、歴史を刻む。そういう価値観を持ってほしいものです。

直視しないから、考え直す(再考)こともない。謙虚に反省することもない。これは心理学的に言っても人間の本質を突く大きな問題です。教養とも深く結びついているとも感じますね。この辺は今読んでいる本からもたくさんの示唆をもらいました。その辺は別途書きたいと思います。

お茶でも点てて瞑想するように自分に向き合う。
そんな時間が大切ですね。@金沢



世界の未来

ロシアが一方的に仕掛けたウクライナに対する戦争も、早くも3か月が過ぎた。残念ながら終わりは全く見えないままだ。

今に至るまでNATOをはじめとする西側諸国は直接的な介入は一切していない。武器を供与したり、衛星の情報を提供したり、最新兵器の使い方を指導したりにとどまっている。国連憲章を無視する暴挙を目の前にしても、ロシアよりはるかに国力のある国々が、明確に介入しないと宣言しているような事態は、歴史的に今までなかったことだ。NATO加盟国のGDPの合計はロシアの10倍、空軍力は5倍だそうだ。しかし、その武器供与も、アメリカを除けば限界も近いのではないかともいわれている。この戦争はいつ終わるのだろうか。経済制裁と武器供与でこの戦争を終わらせることができるのだろうか。ロシアが疲弊するのは間違いないだろうが、敗北を認めざるを得ない終戦を決断するとは思いにくい。プーチンがいる限り。

COURRiE JAPON5.6月号にピケティが書いた記事が載っている。「いまの経済制裁の仕組みでは、大きな打撃を受けるのはロシアの多数の庶民であり、体制を支える少数のオルガルヒや泥棒政治で私腹を肥やしてきた階層ではない」「現状でもオリガルヒに制裁を科すと言ったことが喧伝されているが、実際に制裁の対象となっているのは数百人ほどにすぎない。しかもその制裁は系統だったものではなく、逃げ道がいくるもある。制裁の標的にすべきなのは、ロシア人資産家数万人が西欧諸国で投資している金融資産や不動産資産なのだ」残念ながら、その大多数の庶民はプーチンのやったことは正しいと判断している。東側諸国で今でも行われているプロパガンダは、今のところ絶大なる効果を発揮している。残念ながら、正義も情報によっていかようにも捻じ曲げられる。その事実を前にすると、無力感に苛まれる。ある意味、ネット情報に踊らされる僕たちも同じようなものだが・・・

ルーブルの暴落や経済制裁によるインフレで、ロシアの庶民が年金や給料の半分を失うことになったとしよう。いまその人を助ける手段はない。その人が訴え出る裁判所もない」「一方、資産が一億ユーロ以上あるオルガルヒからその資産の半分を取り上げることにするとしよう。そのとき、その決定に不服を申し立てる方法は複数あり、それにお金を支払わずに済むことも多いのだ」

西側諸国が民主主義の名の下に作り上げてきた法律や価値観であったとしても、ほぼ同じだ。常に富裕層は保護される。そんなことは誰も気に留めないのだ。

「法の支配といっても、これでは完全に偏向しており、非対称だ。西側諸国は、法と正義をいっそう徹底しなければならない。そうすることでポスト軍国主義とポスト植民地主義の世界を建設することに貢献できるのだ」

僕たちは何をしなければならないのか。答えは見つからない。

僕たちは、インフレも景気後退も円安も、そしてもちろんその他の地政学的リスクも、しばらくの間は覚悟して受け止めなければならない。一人一人が感度を上げ、世界で起こっていることを自分事として捉え、意見を持ち、政治に参加し、余裕のある人はお金を積極的に使い、省エネを進め、清廉に生き、他者に優しくし、社会に貢献していくしかないのかな~ あとはウクライナの人達への寄付ですね。

都会のオアシス。こんな環境も、ウクライナの多くの都市から消え失せただろう。
九品仏

 

減量とポッドキャスト

最近ウォーキングの頻度と距離が減ってきた。その理由の一つは歩きながら聴くポッドキャストのお気に入りが無くなったこと。以前に書いた「COTEN RADIO」のエピソード250強をすべて聴いてしまったのだ(今でも週1くらいは更新されている)。歩きながら聴く楽しみを失うと、歩くモチベーションもなんだか下がっちゃう。もちろん他のものをいろいろ試すのだが、魅力的なものに出会っていないのだ。別にジャンルを絞っているわけじゃない。知的好奇心を満たせる興味深いものが欲しいの。

3年弱くらいから、ウォーキングの際に「Runkeeper」というアプリを使って記録を取っている。とはいえ、立ち上げ忘れる時も多いし、以前のスマホではどうも正確に動作しないことが多く、使っていなかった期間もあった。先日そのアプリから、通算2,500キロを記録したと通知が来た。ということはゆうに3,000キロ以上は歩いたことになる。いや4,000はいったか。ま、どうでもいいんだが、結構歩いたものだ。ジョガーの皆さんに比べたら高が知れているが・・・ 正に「ちりも積もれば・・・」である。

体調管理のためにあと2Kgくらいは減量したい僕は、ウォーキングとジムワーク、そしてアルコール摂取量減がターゲットになる。いずれも強い意志が必要だ。楽しみと共存できるのがウォーキングだったわけで、それが楽しみと相反するアルコール摂取量減とは根本的に違うメリットだったわけ。

やっぱり、ポッドキャストを探そう。どなたかお薦めを教えてください。

PS. その後「みんなの世界史 ミンセカ」というポッドキャストを聴きながら歩いてる。COTENは超えられていない。

こどもの日はこんな感じ。帰宅してビールをグイっといきたいところですが、
そこはカロリーゼロのALL-FREEライムショットで我慢(笑)

 

「ちむどんどん」から考える

■ちむどんどん

朝ドラを観ていますか? コロナ前で私がまだ会社員だったころは、在宅ワークもなく、既に会社に到着している時間でしたので、全く観ることはなく、かつてやっていたドラマの題名も全く知りませんでした。それが、近年は完全に朝の習慣になっています。それも、日によっては7:30からBSで、8:00地上波でと、2回観たりして(笑)

その最新作が始まった。その名も「ちむどんどん」(胸がドキドキするという意味)だ。主演の黒島結菜がいいね。「スカーレット」に出演していた時に「いい女優だな~、今に大物になる」と僕の直観がささやいたが、2年経って主人公役を射抜いたわけです。

彼女の言う「『女のくせに』とか『女らしく』って何?」が心の響く。私も彼女同様「カチンとくる!」のです。その意気その意気と呟いてる(笑)

その「ちむどんどん」の暗黒ぶりが話題になっている。アメリカ占領下の貧乏家族の姿が痛いのだ。借金に苦しみ、サトウキビを作り、内職をし、何とか生計を立てていたところに、父が亡くなり、益々家計は苦しく、子供たちには体操着や運動靴も買ってあげられず、普段来ているものはつぎはぎだらけ、母は農業に加え工事現場で働き、夜中まで内職の毎日、長男は働かず、どうやらこれから騙され借金を増やすというストーリー展開になるらしい。ともかく暗黒。子供たちの明るさがそれを救う。その中にあっての反骨精神が冒頭のセリフにつながる。

「女のくせに・・・」なんていうセリフは昭和の当たり前だった。いや、今だって時々聞くかもしれない。その一部は冗談のつもりかもしれないが、根っこには性差に対する決めつけがあるのは間違いない。

東京五輪組織委員会の会長を務めていた森喜朗氏が「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」なんていうのも、その典型でしょう。私が知っているある企業幹部も「女性には厳しい仕事をアサインしないように気を付けている」と言っていましたが、それも差別ですね。個人の特徴や希望ではなく性別で決めつけているわけですからね。本人はそれが「上司の優しさ」だと勘違いしているわけです。それが現実です。もちろんはっきり間違いを指摘しましたが・・・

 

■女性性、男性性

「女性性」「男性性」とは何だろうか。いろいろな考え方があるようですが、少し僕の考えをまとめてみますね。

「女性性」とは積極的にありのままを受け止める力、身を委ねる力、誰も置いていかないという包み込む力、すなわち受け取る力なのではないだろうか。感性、情感、本能に近いもの。

それに対して「男性性」とは、自分の意志を固めてエネルギーを結果を出すために出力しコントロールする力、すなわち出す力なのではないだろうか。愛をベースに何でも受け止めようとする「女性性」に対して、目標を明確にして「こうしなければならない」と決めつけてエネルギーをフォーカスするのが「男性性」だと思うのです。それを支えるのが、論理、理性、言語化に近いものではないだろうか。

だから、よく言われるように、「女性性」は全員を受け止め置き去りにしない行動をとり、「男性性」は決めつけ、できない人を置いていく行動になる。そうなると、「女性性」が「Inclusion」を培っているのに対して、時として「決めつけてしまう」「男性性」が悪さをするケースがあるということですね。

誤解しないでほしい。女性にも「男性性」はあるし、男性にも「女性性」はある。昔はそんな概念はないので、決めつけが激しい男性が「女性はこうあらねばならない」なんて当たり前に思っていたわけだ。この価値観も「男性性」の典型なわけです。(男はこうあらねばならないと考える女性は、男性性を発揮しているということ)

考えてみると、受け止め、理解し、幸せを願う、包み込むことは、愛やエネルギーを受け止め貯めこむことに他ならなりませんね。それに対して、考え、計画し、行動することは、ロジカルに考えた目標に向かって強い意志で計画的にエネルギーを出していくことに他なりません。受け止め、願う「女性性」、計画し、出力する「男性性」と大雑把に表現しても間違いはないでしょう。

ビジネスシーンを想像すると、成果を求めて追及する「男性性」にフォーカスしてしまいがちになるのは分かりますね。しかし、出力ばかりにフォーカスして成り立つのでしょうか。一人一人の個性を受け止め、個性を活かして補い合い、一人一人に合った将来を考え、ともに歩んでいくそんな組織にしたいですよね。成長のための自律した個が助け合うのが「チーム」ですよね。だから、多様性を受け止められるし化学変化が起き、イノベーションが生まれます。即ち、「男性性」だけでは「チーム」は作れません。1on1を単なる「業務報告」「評価」に終らせてしまうのも「男性性」のなせる業ということですね。そう、ありたい姿を共有し、キャリアプランを一緒に考えるためには、リーダーの「女性性」がなくてはならないのです。

以前にも書きましたが、コーチングの世界でよく「Being」「Doing」を分けて考えます。前者は「在ること、在りたい姿、状態」を意味し、後者は「なすこと、やり遂げたいこと、行動」を意味します。その両方を考えることが大切だというアプローチをするわけです。考えてみると、前者は「女性性」のアウトプット、後者は「男性性」のアウトプットに近いかもしれませんね。

 

 

これは、ステレオタイプな「女性らしい」「男性らしい」という価値観を捨てるべきということ。即ち誰にでも「女性性」も「男性性」もあるということ。更に、なければならないということ。そしてそのバランスやTPOは一人一人皆違っていい。あなたらしいバランスを考えればいいということ。出すべき時に使い分けられればいいということだと思う。

五月晴れ。二日酔いの昼下がりはウォーキングに限る。

 

前提は「ローコンテクスト」

最近感じたことを少し書きます。社内でのコミュニケーションは、コロナ禍の在宅ワークの浸透というアゲインストの風の中、社員の孤立を避けるため、またはコラボレーションを進めるため、またはエンゲージメントを高めるために、多面的に機会を増やす努力をしている企業も多いことと感じています。一方で、上司と世代ギャップのある若者たちとの間は、お互いの立場や価値観を理解し合い信頼関係が進んでいるとは思えません。その一つの理由を考察してみました。

 

年に一回の上司との面談。長い会社生活の中で、私は一度もされたことがなかった。常に上司は「いつも話してるからいいよね」という調子。その多くは仕事の後の飲み会だったりするのだが、そんな時にシリアスな将来のキャリアなどを話すわけもなく、恐らく上司のほとんどは僕の希望や思いを知らなかったと思う。正直言って、話してもしょうがないと思ってもいた。ま、それで困ったことは起きなかったのはラッキーだが・・・

ここで問題提起をしますね。今、皆さんが取り組んでいる1on1ローコンテクストを前提にしていますか? ローコンテクストとは、経験や言語や文化的背景などが違い直観的に意図が伝わらない関係ですね。例えば、突然あなたの部下の一人が一度も日本に住んだことのないフランス人になり、双方片言の英語でコミュニケーションをせざるを得ない時のことを想像してみてください。背景や歴史などを丁寧に共有しなけばビジネスの会話は成り立ちませんよね。なぜその戦略を取るのか、なぜそのような評価を下すのか・・・ 納得のいく説明には相当の努力と時間を必要とするでしょう。そうです、あなたとは経験もリテラシーもスキルも能力も違う若い部下も、同様のギャップを持っている前提で話さないと伝わらないかもしれないのです。もちろんフランス人ほどではないでしょうが・・・、一言で腹落ち・納得すると思ったら大間違いですね。丁寧に言葉を尽くすことを忘れてはなりません。

それができなければ、恐らく職場の心理的安全性を高めることはできないでしょう。(「心理的安全性」とは、ありのままでいることに心地よさを感じられるようなチームの風土のこと)

 

日本人のダメなところがそこにあります。単一民族、単一言語、個性よりも「皆と同じ」を尊重して育てられたこと。入社したら定年までそこで働くのは当たり前、一つの企業カルチャーに染まり、社内で使われている言葉も社外では使われない言葉だったり、組織には壁があり、皆率先して境界を作る人ばかり。ムラ社会は会社にはびこる。などなど。およそそんな環境なわけです。

だから、ハイコンテクスト(お互いの意図が察し合える環境があり、阿吽の呼吸が存在する)が当たり前になり、それを理解できない人が排斥される。多様性を前提としていない狭い社会。これが日本をだめにしたと強く思います。そんなの昭和の時代でしょ、と仰る方もいるかもしれませんが、そういう人に限って今でもそうなのかもしれませんよ。言わなくても分かるだろうという圧力を出してませんか? 絶対に出していないと言い切れますか? 奥さんに対しても言い切れますか? 奥さんもそう思ってますか?

D&Iローコンテクストが前提だと思う。それを理解しないと、カルチャーは変わらない。伝統を否定しているわけではありません。守るべきものも多い。しかし、阿吽で分かれよ!は絶対にダメですよ。若い人やキャリア採用で入った人は「なぜそうなの?」と皆思っていますよ。ハイコンテクスト同調圧力になるときもあるし、押しつけに感じる人もいるだろう。幻の心理的安全性を自慢している管理職ははっきり言って「能天気」です。

 

「僕の言いたい文脈は分かっているはずだ」という前提を捨てましょう。そこから新しいコミュニケーションが始まります。

これがチーズケーキ??
固定観念は捨てるべきですね。実に美味しいのです。幸せの時間

 

 

思考と成長

エマニュエル・トッドの思考地図」を読んでいて少々インスパイアされた。最近、コーチングしていて、「考える」ことにいかに向き合うかが重要なテーマのように感じ、「思考」を考えてみたくなったのだ。

僕にとって「思考」とは、今目の前で起こっていることの理由や因果関係や本質など、表面的には分かりにくい深いところを突き詰めるプロセスだと感じます。その時のポイントは、掘っていくこと広げていくこと。即ち見る範囲を大きくすること。見ていくと、何かを「発見」しますよね(もちろんしない人もいる。それは感度の問題で別のテーマ)。その多くは、今まで積み重ねた学びや経験に照らして、それらとの関係や類似性や方程式のような何かだと思います。その結果、なんとなく「なるほど、そういうことか」とか「ということは、あれもそうなのか」というように自分なりに腹落ちするというか、したり顔をするというか、なんとなく納得するのです。または、「それは分かったが、昔はそうじゃなかったような気がするが、いつ頃から変わったんだろう」などと、次の思考探索が始まったりもする。

「思考」に大切なのは、インプットの量だ。比較対象したりする対象が多くなければ発見がないということ。以前にも「上質なインプットがないと人生が先細る」と書いたが、その意味がここにあると思う。常に学び続けてデータベースに格納しておくことが「思考」に不可欠だということです。残念ながら加齢によって、徐々にデータベース自体に霧がかかってしまうのは避けられないが(涙)。

 

さて、冒頭のコーチングをしていて感じたことを少し書きますね。僕たちは常に「流される」状態に陥っていると言っても過言ではないでしょう。その自分に気付いているでしょうか? ほとんどの人は、「そんなこと考えたこともない」と答えるでしょう。また、「どうありたいのか」と問いかけても同様の答えが返ってくるでしょう。

そうです。流され続けているとどうありたいなんて考えないし、当然それと現状のギャップを考えることもありません。ということは、「流れを変える」行動を起こしようがないということを示します。

行動を変える」ことが成長のエネルギーです。しかし、鏡に映る自分を見て今の状況を感じ、なぜそうなのか考え、どうしたいのかを深く掘っていくことをしなければ、絶対に変わることはできません。

立ち止まって考える。逃げずに事実と向き合う。それが人生だと思うのです。

 

客観的に自分を見ることは難しいですよね。しかし、データベースが膨大で、それらと比較することを恐れなければ、相当客観的に自分と向き合えるでしょう。それは行動変容を促し、成長の触媒になります。「思考」は人生のエネルギーなのです。

しかし、目の前のことで常にてんてこ舞いなあなた! 考えてないですよね。自分と向き合ってないですよね。インプットを増やす努力をしてないですよね。

それで本当にいいんですか?

一年で最も花の綺麗なシーズン。街はカラフル。
社会も多様性に溢れもっとカラフルになるといいね。