リベラルアーツ

APU(立命館アジア・パシフィック大学)学長の出口さん。私が尊敬する人の一人。「哲学と宗教全史」は感動ものだった。無知な自分を見つめ直すきっかけにもなったものだ。

彼が人生に何が大切かと言っているかと言えば、それは「本を読む」「旅をする」「多くの人と会う」こと。「旅」は旅行のこととは限らない。どこかに出向いて何かに気付くことすべてだろう。宅急便の生みの親である小倉さんが本に書いていたっけ。ともかく外を歩くこと。社会を観察すること。キョロキョロしているといろいろなことに気付く。それが事業のアイデアになったと。それは「デザインシンキング」にも通底するかも、なんて感じる。

話が少々横道に逸れたが、「本を読む」「旅をする」「多くの人と会う」こととは、深い言葉だ。共通するのは「気付き」「発見」だ。そして、それはすべて「自分」に返ってくる。そう、考えることだ。「理由」を知りたいというシンプルな欲求だ。

自分と違う人と会うから自分が分かる。

多様な意見を見聞きするから自分が分かる。

出会いが異質なものを認識する機会になる。

先人たちの考えに触れると、じゃあ自分はどうなのかと考える。

思考を辿りたいという目覚めを感じる。

「なぜ?」を放っておけない自分を騙しちゃいけない。

 

どこかに行きたい。県外への移動を自粛し続けてもう長い。長すぎる。

そうだ、○○に行こう! ちょっと待て、スケジュールを見ると今月も来月も三日続けて、いや二日続きですら空きがないではないか(涙)

ま、いいか。意志さえあれば時間は作れる。毎日が出会い。そんな人生にしたいものだ。

 

そんな気持ちの中で巡り合った「旅」の一つは「COTEN RADIO」だ。たまたま聞いた「三蔵法師 玄奘(げんじょう)」の話が凄いぞ!! 夏目雅子の話じゃないぞw Youtubeでもやっているので、何作か続くけれどぜひ全部聞いてほしい。

三蔵法師・玄奘 ― 終わりなき知的探究の旅【COTEN RADIO #79】 - Bing video

このコンテンツを配信している彼らは皆30歳代。尊敬するよ。この知的好奇心。本当に思う。何年生きたかじゃないんだな。何を考えてどう生きてきたかがすべて。自分の人生を振り返ることなどないけれど、最近になって初めて反省してる。もっと真理に向き合って生きるべきだったと。

「まだ、遅くはないぞ」と玄奘が言っているかなw

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考える場所と時間

 

ひやおろしを嗜む(たしなむ)

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ひやおろし」という名前に誘われる

私は血糖値がやや高く、5年くらい前に医師から糖質を摂るのを控える様に言われて以来、お米や麺類だけでなくビールや日本酒も控えてきた。節制のお陰で血糖値も少し下がり、時々日本酒も飲むようになった。1っか月ほど前にデパートのお酒売り場に並ぶ「ひやおろし3本セット」に目が釘付けになり思わず購入したのが写真のお酒。

 

さて、「ひやおろし」って何だか知っていますか? いやそもそも日本酒にはたくさんの種類・分類があって分かりにくいけれど、理解してますか? 「大吟醸に限るよね~」なんてステレオタイプなことを言っているじゃないでしょうねw

まずは分類の概要を整理してみましょう。お酒(日本酒)の分類を決める二大要素は「原料」と「精米歩合」だ。原料は米に決まってるでしょ、と仰るかもしれませんが少々違います。もちろん米と米麹が基本ですが、それだけで作ったのが「純米」。それ以外に規定量内の醸造アルコール(食用アルコール)が入っているのが「本醸造」。アルコール度数の調整や味の調整のために加えるのだ。どちらが美味いとかは無関係なのだ。本醸造だから安物だとかまずいということは全くないのだ。恐らくコストは安いとは思うが、必ずしもそうは言えないだろう。

そして、精米歩合。これは何となく知っているでしょう。高級なお酒で「二割三分」なんていう売りで表現したりしてるもんね。これは米の外側即ち玄米を削って糠(ぬか)をとることを精米というのだが、その度合いを指しているんだ。普通のご飯は精米歩合は約90%、即ち外側を10%削っているわけ。「二割三分」なんていうとほとんど芯しか残っていない感じだね。実は米の外側にはいろいろな栄養素が含まれていて、それらは体には良いが雑味を作ってしまうのだ。その雑味が香り成分を抑制してしまうと言われている。確かに精米歩合が少ないお酒は繊細な香りがする。もちろんその方がコストがかかるのは言うまでもない。高価なお酒の多くは精米歩合が少ない。でも、だから必ず美味しいというわけではない。

精米歩合と先ほどの原料の違い、即ち純米か本醸造かが掛け合わされる。まず、精米歩合に規定がない純米が「純米酒」。70%以下の本醸造が「本醸造酒」。60%以下または特別な製造方法の純米が「特別純米酒」、同本醸造が「特別本醸造」。特別な製造方法って何なのか?という話はメーカーの工夫があるのでしょう。酒税法によれば説明標示が義務付けられているので、読んでみるといいね。60%以下のものが「純米吟醸酒」と「吟醸酒」。そして50%以下のものが「純米大吟醸酒」と「大吟醸酒」になるわけだ。磨きが進むと繊細になるというので、大吟醸がフルーティーだなんでステレオタイプに言ったりするんだね。実はそうとは限らない。さっきも言ったが純米が美味しくて本醸造がイマイチということもない。杜氏の腕や嗜好で決まる。ご存じのように「獺祭」で有名な「旭酒造」には杜氏がいないと言われる。即ちかなり工業化が進み恐らく味もデータで管理しているんでしょうね。

さて、ここまでならかなりシンプルな話。実はここには「ひやおろし」なんて出てこないでしょ。それ以外にどのような種類があるんだろう。たとえば、日本酒は製品にするまでに「火入れ」をする。その回数とタイミングでも分類される。火入れとは低温殺菌のこと。酵素の働きを止めたりするわけだ。通常の日本酒は絞ってから火入れして貯蔵してまた火入れして出荷する。それに対して「生貯蔵酒」は絞って貯蔵してそのあとに火入れして出荷する。最初の火入れがないわけだ。またあまり聞かないが「生詰め酒」というのがあって、それは絞ったら火入れして貯蔵して火入れせずに出荷するもの。更に「生酒(本生)」(ビールみたいw)は一度も火入れせずに絞って貯蔵して出荷するんだ。日本酒は劣化が早いので「生酒」はあまり出回らない。とてもフレッシュな味となる。

さて、「原酒」というのも聞いたことがあるでしょ。これがまた別の概念なんだ。お酒って発酵させて絞った段階で一般的なアルコール度数(15度くらい)になるわけじゃない。実は水を加えて調整している。この「加水」をしないのが「原酒」。即ち20%くらいと強いんだ。オンザロックで飲んだりするようだ。僕は以前に木曾に行った際に何本か酒蔵で買ってきた。冷やしてそのまま飲んじゃったけどね。

そして「ひやおろし」だ。秋になると酒屋さんに並ぶのがこれ。僕もなんだかよく知らなかった。ポイントは先ほど書いた「火入れ」。そして季節。「ひやおろし」も火入れを行ってから貯蔵したお酒。そう「生詰め酒」なんだ。しかし、「ひやおろし」は夏を越えてなお貯蔵庫に貯蔵される。蔵の中の樽に入ったままなわけだ。熟成が進み季節が秋に変わり外の気温と貯蔵庫の温度が同じになったときに出荷すのが「ひやおろし」なんだ。そう江戸時代に「冷や」のまま「卸す」からそう呼んでいたらしいんだ。「ひやおろし」は9月ごろから出荷され、11月ごろまで。徐々に熟成が進むので、味が変わってくるんだね。一年で今の季節だけ楽しめるお酒なんだね。

いろいろな分類がある。でも、それに惑わされず味わってみることをお勧めする。しかし、地方の酒蔵でしか買えないものや、その季節にしか楽しめないものを嗜むのも楽しいよね。そろそろ旅行も再開できそう。地方に行った時には酒蔵を訪問するのも楽しいですよ。ちなみに、蔵の中で発酵が進むのだが、建物の入り口に近い樽と奥にある樽では味が違うそうだよ。恐らく僕には区別できませんけどねw

 

 

リスキリング

リスキリング」ってなに? 教科書的に言うなら「職業能力の再教育や再開発」なのでしょう。それも最近の文脈は多くの場合「DX時代の」とか「DXを成功させるための」などという前置きが付く。即ち就業に係わる能力を得ること、それも既に働き始めて時間がたった人が時代に即した新しいことを改めて学ぶこと、的な意味合いだと分かる。

もちろん社会で必要とされるスキルは時代と共に変わる。浮沈も激しい。ちょっと前にもてはやされたスキルがあっという間に流行遅れになったりもする。就業している人にとっては重要な課題だ。

以前「リカレント教育」という言葉が流行った。リカレント教育とはユネスコが73年に提唱した学校教育と社会教育を循環させる考え。即ち社会に出てからも学べる機会を増やし、生涯に学習機会を分散させる考え方だ。何度でも学び直しができる社会、という感じかな。以前にブログにも書いた記憶があるが、OECD加盟国の中でデータがある国だけで比較すると、フルタイムで学び直しをしている日本人は2.4%で28ヶ国中最低。日本人のほとんどの人が、リンダ・グラットン氏の書いた「ライフシフト」で書かれている「学習ー就業ー引退の3段階」をほぼ20年―40年ー20年ときっちり分けて生きている。真ん中の40年はほぼ何も学ばないわけだ。しかし、これからは残りの20年が40年になる。今の若い人の多くはそうだろう、そう人生は100年になる。そんな時代に生産的な人生を送りたくないのか?という話ですよね。多くの人はもっと働きたいとか、社会に貢献したいとその時になると思う。だったら、真ん中の40年でもっと学んで、いろいろな経験を積み、いろいろなスキルや能力を付けて、何度でもギアチェンジして新しい人生を始めればいいじゃないか、という価値観はとってもよく分かる。グラット氏も、これからは、「変われる能力」が最も重要だと説く。同感だ。僕も遅ればせながら学んで第二の就業をスタートさせた。

 

「リスキリング」「リカレント教育」ほぼ一緒。でも僕は前者の、時代に必要なスキルを習得すればお金になる的なドライな感じがなんだか好きじゃない。もちろん、自分の価値を高めることは最も大切なアプローチだし、社会もそういう人を求めているだろう。常にビビッドにチャレンジする姿勢も尊敬できる。でもちょっと何かが足りないと感じるんだ。スキルがあれば何とかなるわけじゃない。社会人として成長しているかどうかはスキルだけでは評価できない。オープンさ、コミュニケーション能力、責任感、リーダーシップ、公共善の価値観、リベラルアーツの深さなどなど、一種の「」が問われるのが「大人の社会人」ではないだろうかと感じるんだ。年齢じゃない、経験の多さでもない、深さは別の何かによって創られると言ってもいいかもしれない。もちろん、僕はいまだにそれらの不足感を恥じることが多い。そう、一種の教養の低さをいまだに自覚する毎日と言ってもいいかもしれない。人生は、永遠のトレーニングという感じかな。

 

毎日目先のことに忙殺され、気付けば50歳・・・ というような人生を送っている人がほとんどでしょう。もちろんそれはそれで十二分に充実した毎日だったかもしれない。自分の人生は自分で決めればいい。しかし、時間は過ぎていく。どんどん過ぎていく。人生を深くしていくためには常に磨き続けることが、必要不可欠だと思う。

考えてほしい。それは、「何を学ぶか」ではなく「なぜ学ぶか」。学ぶことへの渇望。これは人間の本性だと思う。その本性に忠実に生きよう。別に仕事を広げるスキルじゃなくてもいい、哲学でも歴史でも数学でもいいんだ。それは必ずあなたの人生に深い味付けをしてくれるはずだ。

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秋の高尾山。清々しい気候は僕を何かに駆り立てる。
その気持ちを大切に生きていこうと思う。

 

散歩とウォーキング

サラリーマン最後の数年、そしてコロナ禍の最近1年半、良く歩いている。サラリーマン時代は通勤のとき手前の駅で降りて歩いて出勤。帰りにまたその駅まで歩いたものだ。昼休みも天気が良いと歩いていた。毎日10Kmくらい歩いていたんじゃないかな。真夏や雨の日は歩かないけどね。そのお陰で体重もだいぶ減った。その後会社勤めを終え起業し時間の使い方が変わった。クライアントとのアポ以外は自分の気持ちのおもむくままに働いた。ジムにも頻繁に行くように心がけた。しかし、コロナ禍。緊急事態宣言など、感染者が多いときはほぼ休んでいた。会費は払い続けたままで。夏の間もずっと休んでいた。最近感染者が減り再開したところだ。ジムに行かない時は、毎日のように歩いた。お陰でまるでゴルフ三昧の人のように日焼けしたw。

さて、歩くことは健康に良いのはご存じの通り。いわゆる有酸素運動としてダイエットに良いし、気持ちも晴れやか、瞑想効果もあるとされる。事実、歩ているとストレスが無くなり、いろいろなアイデアも浮かぶ。スロージョギングをすると、切れた(脳の)シナプスがつながるとされる。速めのウォーキングでも同じ効果があろうと勝手に思ってる。

その歩きなのだが、「散歩」と「ウォーキング」があるでしょ。その違いを考えてみよう。もちろん、姿勢や速度や腕の振りや心拍数などなど、いろいろな表現があろう。ちょっと見る角度を変えてみるとどうだろう。それは「意図の違い」と捉えられないだろうか。「散歩」に意図はないだろう。買い物もないのにショッピングモールを歩いている時や、ボーっと犬を連れて近所を歩くというような時には、ほぼ何の意志もない。躰も何もコントロールしていない。もしかすると顔の表情も弛緩しているのかもしれない。もちろん、それは精神衛生上最も緊張していない有意義な時間なのかもしれない。しかし、恐らく肉体に対するダイエットや関節の可動域の拡大や、筋肉の鍛錬にはならないだろう。恐らく1時間歩こうがほぼないだろう。では「ウォーキング」とは何なのだろうか。僕は「意図的に歩く」ことなのではないかと思う。例えば、大股で歩く、坂道を選ぶ、足首の接地の角度を意識する、股関節を大きく動かすことを意識する、適度な速度を保つ、姿勢を良くして腕を大きく振る、距離や時間の目標を持つ・・・など。「意図」なくしてできないことばかりだ。

意図の違いで諸々の効果がまるで違うのは間違いない。僕たちが何かを成し遂げようとする時必要不可欠なのが「意図」。そう、何かをしようとする意志。それがあるから道を選ぶことができる。成果に近づくことができる。惰性に身を任せるのではなく、行動を変えることができる。

 

齢を重ねると、時があっという間に過ぎ去っていく。「意図的に生きる」選択をしないと何も変わらない。誰も幸せにできない。そんな気がしてならない。

惰性的な人生の先に成長なんてない。充実なんてない。「意図的に流れを変える」そんな人生でありたい。

そう思いませんか?

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「スモーキー」というニュアンスを初めて経験したのは数十年前「OldParr」(一番左)を飲んだ時。昨年一番右の「TOMIONTOUL16年」(一番右の筒)を友人から頂き、それを思い出した。それがすごく美味しくて、飲み終えてからネットで探したが、売っていなかったのでやむを得ず「同14年」(中)を買った。実はそれが少々がっかり。16年の方がずっと美味しかったのだ。比較的新興のメーカーらしく年度によってバラツキがあるのかもしれない。いずれも全部飲んじゃった。人生も齢を重ねると味が深まるよ~。そうでもないか・・・

 

部屋の中のゾウ

都合の悪いことに踏み込まない人が多い。話題はたくさんある中で、あえてそれをテーマにしないわけだ。テーマになったときでも、特に反対したり、賛成したり、意見を言ったりしなければよいのだ。そう、避けて通るわけ。誰も気づかないのだから堂々と避けていく。それがビジネスシーンで幹部がとる行動の基本の価値観だと、暗黙のうちにされてきた気がする。気付いてはいるが、あえてわざわざ取り上げなければ時間が過去のことにしてくれる、という価値観だ。確かに害はない。落とし穴に落ちる心配もない。

 

そのように、見えているはずなのに避けて通る比喩を、北米では「部屋の中のゾウ」というらしい。なるほど、絶対に皆見えているはずなのに見えないふりをしている感じがよく出てるw

 

多くの人の関心ごとであろうがなかろうが、ビジネスマンであろうがなかろうが、それから目を背けず、あえて堂々と自分の意見を言う。波紋を呼ぼうが、逆風が吹こうが、批判されようが、社会にとって良いことは何なのかに向き合う。つまり青臭い議論に参入する。そんな姿勢が問題を解決するのではあるまいか。問題を先送りしないやり方ではないのか。踏み込んではいけない領域を作らない。本当はそれが大人の所業ではないのだろうか。

 

倫理的であることはもちろん、あるべき価値観に忠実でいることを大切に行動する。清廉でいること。それが新しい企業トップのあるべき姿だと思う。如才ないトップなんて社会に必要ないのではないか。丸く収めようとばかりする幹部なんて、企業に必要ないのではないか。そんなことすら感じる。自分のテリトリーのことですら問題の核心に触れずにぼかす。テリトリーを越えたことには、一切踏み込まない。そんな企業カルチャーが会社を滅ぼすのではないか。

 

「一兆ドルのコーチ」にはこうある。「最大の問題はいわゆる『部屋の中のゾウ』。それを探して、部屋のど真ん中に引っ張り出して真っ先にタックルせよ。」と。

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ホワイトボードディスカッションを心待ちしてる。
緊急事態宣言も明け、もうすぐできるかしら。
これの良いところは、問題の核心を部屋のど真ん中に引っ張り出せることだね。

 

OSと人生

私はコーチングの初回にクライアントに「人生観」や「仕事観」をお聞きしている。多くの人はそんなこと考えたことがなかったと言う。そうだろうと思う。私だって、そんなことを考えたのは相当シニアになってからだ。私の場合は、長年ブログを書き続けていることもあり、自分は何を伝えるべきなのか、伝えたいのか、などと自問自答することが多い。そのように自分と向き合い続けていると、いろいろなことが頭をよぎる。主に内省。しかし、結論が出るわけではなく、結局悶々とした気分になったりする。しかし、自分の気持ちを整理したり、言語化したりするプロセスを大事にしてきた

何かの本質を考える(自分ことを考えるのはそのひとつ)。そのアプローチが固定的な切り口からだとすぐに迷宮に入り込む。アプローチのコツは多様な視座、視点、視野から多面的に見ることだと思う。

何度も言っているが、現代は人類史上最も変化が激しい。そんな中では今まで以上に、自分は何をすべきなのか、何に向き合うべきなのか、なぜそれをしなければならないのか、何のためにそれをしているのか・・・などを考えないと激しい流れに流され続けるだけだ。流され続けることは何も対処していないこと。流れの渦に身を任せてぐるぐるし続けているだけなのかもしれない。世間の変化にも気付かず、友人や家族の混沌にも気付かず、渦の中にいる。

どういうタイミングで、何をセンシングして、どう解釈して、何を取り上げて、どうアクションするのか・・・それはいわば僕たちのOSの役目。そのOSはバクだらけだったりする。だからさっき書いたような多様な視座、視点、視野から多面的に見た結果や、実際経験した「」、それによって成熟した「価値観」などによって、そのOSをアップデートし続けなければならないと思う。もしかして、自分をコントロールする僕たちのOSは凍結したままではありませんか?

人生に向き合うプロセスは、自分のステータス(状態)を気付かせてくれる。正に「今ここにいる自分」即ち「Being」に気付かせてくれる。悶々としているのか、元気に走っているのか、渦の中をぐるぐる回っているだけなのか・・・

 

「人生観」「仕事観」を考えてみよう。僕は何のために仕事をしているのか。なぜ仕事をするのか。人生に意味を与えるものは何なのか。何が人生に影響を与えるのか・・・

自分と向き合い自分を変えるその繰り返しが人生だと思う。その繰り返しが成長・成熟だと思う。そのためには自分の行動を司る陳腐化したOSをアップデートしよう。

世界で何が起こっているのか。歴史、社会学、哲学・・・などはOSのアップデートに必要不可欠だ。その刺激が脳を活性化させる。本を読もう。いろいろな人の話を聴こう。新聞を読もう(メディアの信頼性は下がったが)。「知識」ではなく「知性」。「教養」かもしれない。

実は僕が一番自信のない分野なのかもしれない。いまさら反省しても少々遅いかなw

でも結構一生懸命です。ちなみに、今読んでいるのは「経営戦略原論」と「世界史のなかの昭和史」。読むきっかけは「反省」でした(笑)

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緑と黄と青。気持ちの良いコーディネーション。樹によっては早くも🍂が。
僕たちのOSも新陳代謝がないと虫に食われて、冬も越せないよ。

 

経営資源の問題はカルチャーが足を引っ張る

変わりやすい天気。変わるたびに季節は一気に変わっていく。でも、僕たちのビジネスは毎年同じことをぼやいていませんか? なぜ変われないのだろうか。今日は真面目な話。いやいや、毎回結構真面目な話をしているつもりなんですが・・・

 

企業が成長戦略を考える時、リソースが足りない・・・など経営資源の不足を嘆くケースが多い。皆さんもきっとそうでしょう。

経営学の中で、長きにわたって「資源ベース理論(A Resource-Based View of the Firm:企業を資源から捉える考え方)」が企業の中で戦略を議論するときに、日常的に当たり前のように会話の中に登場し続けた。スタートは1980年代。それまで外部環境に偏り過ぎていると気付き、企業が競争力を持つためには他者が真似できない資源を保持すること「資源獲得障壁」を築くことが重要だという主旨の論文が出たことに始まる。

それから30年以上たった今でも、我々は自社の競争優位性をコア・コンピタンスなどの資源を分析するなどして論じている。この古い概念をもう一度見直してみよう。というのは、今足元でそんなことを分析している視座が薄っぺらすぎるのではないかと危惧しているからだ。

企業が保有する資源は、代替しづらく、模倣困難なことは必須条件となることは言うまでもない。実はそれに加えて大切なのは、その資源が蓄積されてきた過程が独特であることだ。独特であるがゆえに他社にまねができないということだ。

企業が戦略を論じるときに、個々の事業が持つコア・コンピテンスの獲得と育成、そしてそれらのための組織的な集団学習のシステム(仕組み)づくりに注力しているだろうか。事業の成長戦略を語る上で、付け足していくべきコア・コンピテンスを明確にしているだろうか。また、既に持っているものを継承、強化していくために明確な学習プロセスを構築・実践しているだろうか。それらがなければ、コア・コンピテンスは相対的に失われていくし、成長に必要なピースは強化されて行かない。コア・コンピテンスのポートフォリオを明確にしよう。そしてそれを強化する学習システムを定着させよう。それ抜きに成長は語ってはならないと理解しよう。

実は北米の企業は日本企業のコア・コンピテンスを分析して、それを凌駕する戦略を立て実行してきた。その流れは経営学者が作り出したと言っても過言ではない。その間に日本企業の相対的競争優位性は失われてきた。私は、北米企業の成長は経営学者によって支えられてきたのだと、思っている。

 

資源の重要性は現在でも論を俟(ま)たない。多くの教科書で取り上げられているのが「VRIOフレームワーク」だ。Variable(模倣困難か)、Rare(希少性があるか)、Inimitable(模倣困難か)、Organization(組織と適合性があるか)。ここで注目しなければならないことがある。企業は異質性があればあるだけ競争力は高まる。そうであるなら、その資源は交換性の低いものであるほど、競争優位性は揺るぎないものになる。即ち市場で交換しやすい(お金などで手に入る)ものでないものほど価値が高い。ということは有形資源より無形資源が企業に固着していることが重要であることが分かる。

しかし、多くの企業はそれに真剣に向き合っていないように感じる。無形資源とはどのようなものなのだろうか。その考えを進める理論がある。それが「知識」を重要視する考え方。資源には多様な種類がある。多様な資源を再編し、組み合わせる知識とそれを編集する仕組みこそ企業の競争優位の源泉だ、という考え方だ。企業の中には多様な資源がある。その多くは恐らくサイロ化された各組織の中に潜んでいる。残念だが間違いないだろう。さて、皆さんにはそれらを組み合わせる知識や編集したり改変したりする仕組みがあるだろうか。恐らくNoだろう。日本企業の多くは、縦割りが強すぎ、その壁は厚く、資源はオープンにされていない。それがイノベーションを生まない理由でもある。入山教授がいつも言っていることに繋がってくる。

また、「知識」ではなく「能力」が重要なのだという考え方もある。企業内に存在する資源を再構築する能力こそが、競争優位の源泉であり、持続的な競争優位に繋がるという理論だ。能力か知識かの違いがあるが、言っていることはほぼ同じだ。

言えることは、重要な資源は有形なものではなく、知識、知財、プロセス、人財、人のネットワーク、能力、それらによる化学変化が起きやすい環境などなどの、曖昧な「何か」だ。それは現在の経営学の中でも明らかにされていない。

私はあえて言いたい。あなたの会社は、そもそも競争優位を生み出す資源に真剣に向き合っていない。それを生み出し育てることを推進していない。それらは決して短期間でなしえることでなく、成果は目に見えにくい。それゆえ、それはなかなか真剣に議論されない。御座なりにされる。それは、幹部の責任である。先送りにしない決意。それが企業カルチャーであるという事実から目を背けない。そこに横たわる感情や信頼関係の重要性を忘れない。そんなことが大切だと痛感する。

経営学と企業カルチャー。一見全く関係ないと感じるだろう。いろいろなフレームワークを学び、戦略を真剣に考えることは重要ではある。必要なビジネススキルでもある。しかし、それを活かし成長につなげるためにはそのベースとなるエンジンが必要なのだ。そう、組織は人の能力が高ければ成果を出せるわけではない。そこには感情があり、信頼関係をベースにしたイノベーションや、目先のことに拘泥しないビジョン、そしてトップの揺るぎないリーダーシップが必要なのだ。

 

最近野中名誉教授が以前から提唱している「SECIモデル」が多くの人に引用されている。海外でも注目されているそうだ。この論文は、「暗黙知」と「形式知」の知識変換が組織内の新しい知識創造を起こすと述べている。企業内でそのような知識が形成され、共有され、進化するためにはどのようなプロセスが理想なのかを理論化している。それが「共同化(Socialization)」「表出化(Externalization)」「連結化(Conbination)」「内面化(Internalization)」の「SECI」なのだ。ちょっと分かりにくいその理論は凄く当たり前のことを述べているようにも思える。しかし、それが的確に行われている組織は非常に少ないのだろうと推測できる。

例えばIT系の皆さんがよく知るPMBOK(Project Management Body Of Knowledge)がある。プロジェクトマネジメントのノウハウや手法を体系化したもので、いわばSEのバイブルだ。ほぼ全員の人が学んでいるのではないだろうか。足元を考えてみよう。皆さんは先輩や上司から、いろいろな経験やそこから得たコツや利用したオリジナルのドキュメントやフレームワークを継承されているだろうか。その多くは、きっとこんな環境の顧客にこう対峙したら反発されこじれて大変だったとか、どういう特性のあるプロジェクトはどのようなサブチームの構成でスタートすべきだとか、こういうものはスクラムは向かないとか・・・多様な経験は多様な暗黙知形式知に変換して蓄積する。しかし、このような貴重な暗黙知は組織に蓄積され、タイムリーに引き出されることによって継承されているだろうか? 恐らくほとんどの皆さんは感じるでしょう、「No」。それが実態ですね。

なぜそんなことすらできないのでしょうか。そここそが問題だと思う。とても愚直でシンプルな行動。なぜ御座なりにされるのか。

先ほど述べたように、無形の知の蓄積は最重要な資源ではないのか。競争優位性の源泉ではないのか。もちろん短時間で成果に結びつくものではない。だからこそ、カルチャーとして根付かせなければならないのではないだろうか。もちろんそれはIT企業だけが対象ではないことは言うまでもない。

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秋の装いがひたひたと広まってきた。毎年繰り返される四季。
僕たちのビジネスも同じことの繰り返しではないのか。
それを変えるのはリーダーの使命ではないのか。