散歩とウォーキング

サラリーマン最後の数年、そしてコロナ禍の最近1年半、良く歩いている。サラリーマン時代は通勤のとき手前の駅で降りて歩いて出勤。帰りにまたその駅まで歩いたものだ。昼休みも天気が良いと歩いていた。毎日10Kmくらい歩いていたんじゃないかな。真夏や雨の日は歩かないけどね。そのお陰で体重もだいぶ減った。その後会社勤めを終え起業し時間の使い方が変わった。クライアントとのアポ以外は自分の気持ちのおもむくままに働いた。ジムにも頻繁に行くように心がけた。しかし、コロナ禍。緊急事態宣言など、感染者が多いときはほぼ休んでいた。会費は払い続けたままで。夏の間もずっと休んでいた。最近感染者が減り再開したところだ。ジムに行かない時は、毎日のように歩いた。お陰でまるでゴルフ三昧の人のように日焼けしたw。

さて、歩くことは健康に良いのはご存じの通り。いわゆる有酸素運動としてダイエットに良いし、気持ちも晴れやか、瞑想効果もあるとされる。事実、歩ているとストレスが無くなり、いろいろなアイデアも浮かぶ。スロージョギングをすると、切れた(脳の)シナプスがつながるとされる。速めのウォーキングでも同じ効果があろうと勝手に思ってる。

その歩きなのだが、「散歩」と「ウォーキング」があるでしょ。その違いを考えてみよう。もちろん、姿勢や速度や腕の振りや心拍数などなど、いろいろな表現があろう。ちょっと見る角度を変えてみるとどうだろう。それは「意図の違い」と捉えられないだろうか。「散歩」に意図はないだろう。買い物もないのにショッピングモールを歩いている時や、ボーっと犬を連れて近所を歩くというような時には、ほぼ何の意志もない。躰も何もコントロールしていない。もしかすると顔の表情も弛緩しているのかもしれない。もちろん、それは精神衛生上最も緊張していない有意義な時間なのかもしれない。しかし、恐らく肉体に対するダイエットや関節の可動域の拡大や、筋肉の鍛錬にはならないだろう。恐らく1時間歩こうがほぼないだろう。では「ウォーキング」とは何なのだろうか。僕は「意図的に歩く」ことなのではないかと思う。例えば、大股で歩く、坂道を選ぶ、足首の接地の角度を意識する、股関節を大きく動かすことを意識する、適度な速度を保つ、姿勢を良くして腕を大きく振る、距離や時間の目標を持つ・・・など。「意図」なくしてできないことばかりだ。

意図の違いで諸々の効果がまるで違うのは間違いない。僕たちが何かを成し遂げようとする時必要不可欠なのが「意図」。そう、何かをしようとする意志。それがあるから道を選ぶことができる。成果に近づくことができる。惰性に身を任せるのではなく、行動を変えることができる。

 

齢を重ねると、時があっという間に過ぎ去っていく。「意図的に生きる」選択をしないと何も変わらない。誰も幸せにできない。そんな気がしてならない。

惰性的な人生の先に成長なんてない。充実なんてない。「意図的に流れを変える」そんな人生でありたい。

そう思いませんか?

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「スモーキー」というニュアンスを初めて経験したのは数十年前「OldParr」(一番左)を飲んだ時。昨年一番右の「TOMIONTOUL16年」(一番右の筒)を友人から頂き、それを思い出した。それがすごく美味しくて、飲み終えてからネットで探したが、売っていなかったのでやむを得ず「同14年」(中)を買った。実はそれが少々がっかり。16年の方がずっと美味しかったのだ。比較的新興のメーカーらしく年度によってバラツキがあるのかもしれない。いずれも全部飲んじゃった。人生も齢を重ねると味が深まるよ~。そうでもないか・・・