The Marshall Tucker Band と 民主主義

早く起きた朝、The Marshall Tucker Bandをデスクで聴きながらこれを書き始めた。DACをPCとスピーカーの間に付けたばかりで、音の粒立ちが上がり心地いい。このバンドの曲を聴くと、タイムマシンに乗ったようにとても懐かしい。10代から20代、サザンロックばかり聴いていたころを少し思い出した。たまたまamazon music HDのリコメンドに従い、The Allman Brothers Bandを聴いたらスイッチが入ってしまい、最近サザンロックを聴いている。昔の音楽を聴くと「古!!」と感じることが多く、すぐ変えてしまうのが“あるある”だが、バンドとしての緊張感と共にちょっとほのぼのとした空気を感じられるサザンロックは、実に心地いい。ちなみに、僕が高校の時ロックを聴き始めたきっかけが、The Allman Brothers Bandの「Eat A Peach」というアルバム。初めて買ったLPだったような記憶がある。興味がある人は是非聞いてみてください。彼らがいかに天才かがすぐ分かる。今聴いても古さは全く感じないよ。

 

最近民主主義の姿が問われていますね。ロシア、ベラルーシ、中国などは完全に専制国家ですね。自分の任期を法律を変えて延ばしてまで、独断で支配する構造を維持しています。いわば独裁国家だと思っていましたが、実は言葉の意味は全然違いました。専制政治は国民が選んだ支配者ではない場合。典型的なのが王族が支配しているケースです。今でも中東などにありますね。独裁政治は、国民が選んだ支配者が好き放題に支配するケースですね。目的は体制の維持そのものになってしまう。多くの国は体裁としては選挙の形をとりますが、一党支配になれば好き放題です。選挙結果ですら捻じ曲げてしまう。

このような独裁的な政治は、実は小気味よくスピーディーな面を持っていますね。何しろ、支配者がこうすると言えば即日実行できるのですから。これが混沌とした社会環境の中で、突然スーパースターが現れて猛烈なスピードで改革をする場合などは、国民の支持を得られ輝かしい支配者像が出来上がりますが、その体制を維持したいがために、反対する意見を封じ込め、警察や軍の力をもってねじ伏せようとしたり、場合によっては暗殺までしてしまうようになったら、国民はもとより国際社会が黙っていません。しかし、先に書いた国々はやりたい放題です。軍によるクーデターを起こしたミャンマーも形態は違えど似たような状況です。民主化への移行などと言い始めていますが、結局は自分の利益の維持は譲らないでしょうね。

企業の中やマンションの管理組合などをちょっと想像してみましょう。何事も民主的に決めようと思いますよね。しかし、参加している人たちは参加すること自体が面倒で、「もう適当に決めてよ~」などと思ってしまいます。リーダーがその空気を感じて「私に任せてください」と言い出せば、皆ラッキーとばかりに賛成しますよね。独裁はそんなところか始まると言っても過言ではありませんよね。そのリーダーが図に乗って、どんどん暴走する。皆もとても楽で任せっきり。気が付いた時には様々な権限がそのリーダーの手の中に・・・場合によっては、大規模修繕の業者選定でキックバックを得ているかもしれませよ。

そう、独裁は麻薬です。中毒から逃れるのは簡単なことではありません。一方で民主主義はどうでしょう。いちいち面倒で、参加者に当事者意識がなければ何も決まらないし、議論はいつも迷走します。自分に火の粉がかからないように逃げてばかりの集団は、強いリーダーを求めるものです。

民主主義は、面倒なんです。今回のコロナ禍の政府の対応に対して、もっと強引にロックダウンをすればよいと考える人もたくさんいたでしょう。それは法律でできません。しかし、それを求める一部の国民。その意見を勝手にくみ取り法律を強引に捻じ曲げてロックダウンをすることと、自衛隊を軍に変えいつでも戦争に参加できるようにするのとは、同じ線上にあります。

いかに面倒でも、自分の国のこと、街のこと・・・は当事者としてちゃんと考え意見を言うこと、即ち国民一人一人が自分事としてとらえて、政治に参加することが唯一の解だと思います。どんなに面倒でもです。

それにしても、今の政治は少々傲慢な対応が目立ちます。自民党は図に乗ってますね。知らないとしらを切り続ければ乗り切れると高をくくっています。真相が分からないことばかりです。官僚も気骨がない。安倍政権からその傾向が強くなりました。国民を愚弄していると言ってもいいでしょう。反省してもらいたいものです。自民党内でもそういう意見がもっと出るべきです。言い換えれば自民党内、自民党政権下の霞が関(官僚も含め)の民主主義を機能させてもらいたいものです。真相を追及したり反対したら干される、というような文化はきれいさっぱり抹消してもらいたいものですね。秋の総裁選。新しい流れができることを期待したい。そういえば、総裁選には国民の意見は反映できませんね(自民党員だけ)残念です(涙)

「サピエンス全史」を書いたユヴァル・ノア・ハラリ氏もテレビで同様のことを言っていた。「世界は捉えがたくなり、未来は見通せない。不確かで危うい時代」そして、民主主義時代でも危ういポピュリズムが横行する世界。僕らにできることは、「心の中の悪魔」と闘うことですね。協力、連帯、利他、倫理・・・ですね。

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生き生きしてる

 

姿勢を問う “GRIT”の話

先日、録りだめた中から「ビューティフル・マインド」という映画を観ました。19年前の映画です。若いL・クロウの名演にも感心しましたが、ストーリー即ち、晩年にノーベル賞を受賞した天才J・ナッシュ(ゲーム理論が有名)の数奇な人生が泣かせるんです(実在の人物の半生)。J・コネリーはウットリするほどの魅力を出し、ナッシュ(夫)への深い愛を感じます。彼は彼女の愛に支えられ、病気を乗り越え(闘いと言った方がいい)批判や変人扱いの偏見と折り合いをつけて、自分を貫きます。皆さんにもお薦めします。今日は自分を貫くという話に通じる話題ですよ。

“GRIT”って知ってますか? その名の書籍(ペンシルベニア大学教授のアンジェラ・リー・ダックワース博士)がベストセラーになったのでご存じの方も多いと思います。GRITのGGuts(根性)RResilience (復元力)IInitiative(自発性)TTenacity(執念)を意味します。総称してやり抜く力などと表現されますね。

同氏は努力と才能と達成の関係をこう書いています。とても腹落ちするものです。

才能×努力=スキル   スキル×努力=達成

気が付くでしょ。両方に努力が出てくるんです。まず右から見ましょう。「スキル」があるだけでは成果は出ません。即ち所期の目標を達成できるわけではありませんね。そこに必要なのは「努力」なのです。すなわち、「スキル」があっても努力をしなければその「スキル」は何の役にも立たない「宝の持ち腐れ」になってしまうわけですね。

そしてその「スキル」ですが、素養や「才能」があっても「努力」しなければ「スキル」を延ばすことはできないはずです。せっかく与えられた(神様からのギフトw)スキルはすぐ頭打ち、即ち伸び悩むわけですね。

さて、そこで大切なことは、「努力を続けること」ですね。よく言われることですが、継続が重要な要素なのです。それらをトータルに表現したのが「GRIT」なのだと解釈しています。

企業に勤める人たちは、言い換えれば「プロ」です。何らかのプロフェッショナリズムが価値を生むことを期待して契約を結んでいる。そうなれば、当然成果を出さない限りそれに報いることはできません。即ち成果に対して報酬をもらっているわけです。しかし、常に期待された成果を出し続けられるわけではありません。運もある、競争相手の出方もある(極端なディスカウントをされたら勝てませんとか)、必要な経営資源が特定の背景により与えらえない時もあります、そもそも劣勢から(技術的、実績的、ブランド的など)厳しい戦いを挑まなければならない時もあります。その時に重要なのは「GRIT」ですよね。そこにあるのは、論理ではない、新しい論理を作り出すことも厭わない姿勢、アイデアを絞り出す葛藤、粘り強く積み重ねる姿勢、折れない精神、強い意志、負けず嫌いな心などの「姿勢」ですね。

是非マネジメントの方々は、1on1でその姿勢の在りようを問いかけてください。今の仕事や環境に安住している姿勢は本人にとってとても不幸なはずです。能力の一部しか使ってない。成果を出せるチャンスをみすみすドブに捨てているかもしれない。それに気付かせ、覚醒させることが上司の使命と言っても過言ではありませんね。

GRITを糸口に、姿勢に問いかけるコーチンは、マネジメントの重要なアプローチ手法です。覚醒した部下はきっと充実した毎日を送れるはずです。これによって会社も、上司も、本人も皆Win-Winなはずです。充実した日々は僕たちに幸せを与えてくれることでしょう。

 

バイアスの強いベテラン(年齢などに関係ない)はどこか達観している人が多いと感じます。ま、人生こんなものか、という感じ。前にも話しました「ベーススキル」の執着心とか当事者意識が少しづつ薄れていく。これは多くの人にとってよくある話ですね。「永遠のルーキー」のように自分を磨き続けることが楽しみになれば、人生が楽しくなるはずです。「GRIT」がそのヒントになると思います。再覚醒するためには、自分でいかにスイッチを入れるかと、上司がコーチングによってそれに気付かせることが重要です。

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若いでしょ。近年の彼は二まわりほど太くなっちゃって、なんだかな~って感じ。

ま、しょうがないか~。

 

 

 

 

2年だって?

このブログも始めてから2年になる。このサイトで始める前の社内ブログの期間も含めると、20年位になるはずだ。伝えたいことがあるという意思を大切に想い、その気持ちに忠実にありたいと自分を鼓舞し続けてきた。時には、絞り出すエネルギーを失い、再び書きたくなるまでしばし休むこともある。しかし、また書きたくなる。書き下す、即ち言語化することで頭が回転するような気がする。自分とは何者なのかを晒すようで躊躇するときもある。でも、書くことが自分自身の探索でもあると気付くと、薄っぺらなことしか書けなくても、それが自分なんだと納得する。そんな時は、少しニヒルな笑みを讃えているはずだ。そして、「ま、いいか!」と言っている。

人生なんて所詮薄っぺらだ。薄っぺらだろうが、誰かとつながり、ほんのちょっとのエネルギーが伝わればいい。人生100年と言われようが、そんなに長く生きたいなど微塵も考えたことがない。その人生の中で、結局は発信する粗末な文章の積み重ねはどんどん大きく育ってきたのかもしれない。取り留めがなかろうが、浅はかだろうが、僕の人生の中に生きた証拠として、ヘドロのように溜まり、重く成長している。誰が言うのでもなく、自分だけがそう感じる。それがいい。

「自由の限界」そしてパレスチナの惨状と僕たち

イスラエルが内戦状況になってきた。イスラエルに住むユダヤ人とガザ地区にいるパレスチナ人(パレスチナに住むアラブ人)との排他的な歴史と感情は常に爆弾を抱えたままだった。きっかけがあるといつでもこのような火花が散る。今回は再び火花どころでないほぼ戦争状況になっている。

今ちょうど「自由の限界」という新書を読んでいる。これは読売新聞の編集委員である鶴原氏が、近年世界の知性と言われる21人に何度もインタビューしてきたものを、彼の視点でまとめたものだ。国家と民主主義がどうなっていくのか。賢人たちはどう見ているのだろうか。彼らの言葉に耳を傾けたくなり思わず本屋で手に取った。

イスラム過激派の暴挙、英国のEU離脱トランプ大統領の登場と敗退、アラブの春、極右の台頭、中国の台頭と唯我独尊、自国第一主義・・・近年民主主義が揺らいでいるように感じる。米英が先導してきたグローバル化は破綻してきた。米国を中心とする世界で最も裕福な1%の人がその他69億人の富の合計の2倍になっている現実。富の差による分断はますます進むばかり。

公平をうたう社会主義的主張がどんどん浸透する。ベーシックインカムは正しい道なのか。民主主義はどうなるのだろうか。

鶴原氏は「フランス革命の自由・平等・博愛という理念のうち、米英流のグローバル化と共に自由が過剰に肥大化した。これが現代の深刻な問題をもたらしている。禅の公案のようですが、自由を守るために自由を抑える必要がある」と書いている。その考えが、米国ですらひたひたと浸透してきた。その流れが大統領選における若者たちの社会主義的価値観の浸透だと理解する。

さて、横道に外れた。イスラエルに戻ろう。21人のうちの一人アマン・マアルーフ氏の説明を少し引用する。「第一次大戦時、中東で二つの建国運動が勢いを増します。アラブ王国建設とユダヤ国家建設。前者はトルコ系イスラム国家のオスマン帝国が崩壊過程にある中、帝国内のアラブ圏のアラブ人らが起こした独立への動き。欧州の民主主義の台頭に影響を受け、自らの帰属をアラビア語に求めました。後者はロシアや欧州で虐殺などの迫害に遭っていたユダヤ人が、アラブ圏にある『約束の地』パレスチナで祖国建設を企画した動きです。英国は戦況を有利に導くため、アラブ人に『オスマン帝国に反乱すれば、王国を与えよう』と約束。アラブは反乱し、オスマン帝国の敗北に力を貸します。ところが戦後、英国は約束を反故にして、『アラブ圏は英国の委任統治領とフランスの委任統治領に分割する』などと翻意。その一方でユダヤ人の祖国建設は支持します。オスマン帝国のアラブ圏内の『歴史的シリア』(今日のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナイスラエルを含む地域)とイラク委任統治されます。アラブ人らは深く失望します。列強に匹敵しうる、広大なアラブ王国樹立の歴史的好機を奪われたと。」

一方「ユダヤ人には強靭な意思と綿密な計画がありました。あらゆる国と接触を重ね、支援者を地道に増やす。アラブの夢は頓挫し、ユダヤの夢は前進します。」そして、「1948年、パレスチナイスラエルが建国されます。エジプト、シリア、イラクなどアラブ諸国は戦争を仕掛けますが、貧弱な軍備と混乱した指揮で敗退します。決定的なのは、67年の『6日戦争』。アラブ諸国を率いたのは、国際的には非同盟主義を指導し、中東では汎アラブ主義を掲げてアラブ統合を唄え、半神のように崇拝されたエジプトのナセル大統領。ソ連の軍備提供で『世界第三の軍事大国』を自負していましたが、イスラエルに圧倒的に打ち負かされる。ナセルに託したアラブ世界の希望が、ある朝一瞬で消えたのです。絶望でした。アラブ人は自己嫌悪し、自信を失い、取り巻く世界を敵視しつつ、勝ち目のなさを自覚する。汎アラブ主義の灰燼(かいじん:すべて燃えて灰になること)から、アラビア語ではなく、宗教を頼りとするイスラム原理主義が台頭します。そして、79年、原理主義イラン革命で政権を取ります。イランは民族的にペルシャで、宗教はエジプトやサウジアラビアなどアラブ諸国の大半がスンニ派であるのに対し、シーア派です。ただ、革命を通じて『反西洋』『統合』の新たな象徴となり、汎アラブ主義の瓦解で生じた空白を埋めた。原理主義は主流になります。サウジは厳格なイスラム主義に転じ、布教に熱を込めます。この流れの行きつく先に米同時テロという爆発があった。」

その後の、米国主導のイラク戦争スンニ派サダム・フセイン政権はなくなり、シーア派の新政権ができたところで、両派は引き裂かれ武力衝突を繰り返す。両派の対立は眠っていた獅子を起こすように各地で正に覚醒していく。歴史の渦に巻き込まれ続けた中東。正に不信、憎しみの連鎖です。すべて人が作ったのです。部分最適は溝を深めるだけ。誰かの幸せは誰かの反発。そこにはほぼ大国の自国利益が絡んできた。

彼は、「イスラエルパレスチナの新たな和平合意は不可能です」という。そんな中での、トランプ氏がエルサレム(現地ではジェルサレムと発音しているように聞こえる)をイスラエルの首都と認める発表をしたことは国際社会を驚かせた。国際社会はエルサレムに対する主権をイスラエルに認めていないのだ。何の権限と合意があって承認したのか、まったくわからない。トランプ氏が米国の利益という名の右派のご機嫌取りにしか見えない。

私は、仕事で2度イスラエルに行ったことがある。経済の中心であるテルアビブと中央官庁が存在するエルサレムだ。実は訪問していた際も、今回よりもはるかに規模が小さいが戦闘状況にあった。ある企業を訪問している際に、空襲警報が鳴り、ビル内の安全な場所(建物の中心部で頑丈な構造になっている部屋)に避難したし、ロケット弾を打ち落とす迎撃ミサイル(アイアンドーム)の迎撃音も聞いた。私が次の地北米に向かった後には、そこまでは届かないとされていた当時のロケット弾が、国際空港近くに被弾し、何日も国際線がすべて欠航し、残ったメンバーは出国できず、生きた気がしない数日を過ごした。

世界でユダヤ人は約1,300万人だとされる。世界の人口が78億人くらいでしょうから、0.16%くらい。実は、例えば世界のノーベル賞受賞者の22%がユダヤ人だとされる。米国人受賞者だけで見ると36%がそうだとされる(2013年のデータ)。いかにユダヤ人が優秀かを裏付ける話だ。迫害され彷徨った彼らには知識や学びに対する高い価値観があるのだろう。私が面談した数十人の企業人、研究者は抜群に優秀で、皆起業家精神に溢れ、オープンで野心に満ち、同時に皆謙虚な人たちであった。

ユダヤ人の国、アラブ諸国とも友好的な関係にある日本。トランプ氏のような、自分の都合で片方に一方的に寄った政治は絶対にしてほしくない。もともとその不幸な関係を作ったのは欧米列強とロシア(旧ソ連)とも言える。極東の小国である日本が、暴挙に出た時代もあった。今や経済大国の看板も下ろしかけているが、世界の平和や環境問題に対しての、追求と模範たる行動が求められているはずだ。残念ながら理念、信念に裏付けされる行動ができているとは思えない。僕たちに見えているのは、目先の問題に汲々とする政治家。すごく情けない。
それは他でもない僕たち国民が情けないことを指していると思う。

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2014.7のテルアビブ。今ここにロケット弾が飛び交っていると思うと、とても悲しい。

 

松山英樹のコーチ

松山英樹がマスターズで優勝した。そこで話題になったのは目澤コーチの存在。松山選手はコーチを付けずに独力で成長してきたことで知られる。その彼が目澤コーチを中心とするチームを雇い(トレーナー、キャディーを含めた3人)彼らのバックアップを受けて、一気に花開いた結果が今回の優勝だった。

目澤氏の独占インタビューがNPに載ったのが5/5。私も刺激を受けた。私もビジネスコーチの端くれ。彼の話にインスパイアされ、あらためてコーチとはどのような存在なのかを私なりに書いてみたい。

目澤氏はTPIの最高レベルのレベル3のコーチ資格を持つ。TPIとはTitlist Performance Institude(タイトリストパフォーマンス研究所)。ゴルフ用具で有名なタイトリストがスポンサーになって運営されているゴルフ専門の研究所。そこでコーチの養成も行っているのだ。世界ランキング上位の選手の多くは、ここで養成されたコーチと契約していると言われる。従来のコーチは技術のことしか言わない、即ちスウィングのテクニカルコーチ。しかし、それでは選手のパフォーマンスは上がらないと、TPIは言う。技術だけではなく、用具、身体能力、メンタルなども含めた総合的なアプローチが必要不可欠なのだ。

僕なりの解釈をしてみる。例えば、スイングを変えたいとしよう。そこで大切なのは、本人がどのようなプレイヤーでありたいのか。どのようなシチュエーションでどんなプレイをしたいのか。どんなプレイスタイルを目指したいのか。などの思いが重要になろう。そして、世界のゴルフ場はどのような方向で変革していくのか(レイアウトや距離、ハザードなどのデザイン等)。ルールは変わっていくのか。それはなぜなのか。などの洞察などがその背景にあるはずだ。

即ち、自分がどうありたいのかBeing何をしたいのかDoingを明確にすること。それにはどのような技術が必要なのか。そのスウィングを実現するためには関節の可動域や柔軟性、筋力はどうあるべきなのか。それを実現するためにどのようなトレーニングが必要なのか。どれくらい時間をかけるべきなのか。そのプレイスタイルに適したクラブの特性はどのようなものなのか。どのメーカーのどのクラブが最適なのか。改造して実現するのか。ボールも同様。どのようなシーンでどのような戦略を立てるべきなのか。その時精神状況をどのように保つべきなのか。それができるようにどのようにトレーニングすべきなのか。ゴルフに取り組む姿勢が、子供たちや後輩や社会にどのような影響を与えるべきなのか。などなど、それをすべてつながったものとして多面的にとらえて、だからこうすると本人が一番納得して、常に自分と向き合って、研鑽を続けるのだ。

コーチは、それらを多面的にとらえる手助けをする。ああしろ、こうしろと押し付けはしない。なぜか。本人が自分の力で気付き納得して初めてすべてがつながり、苦しいトレーニングを続けられるからだ。納得できなければ続けられない。客観性も失ってしまう。自分を正しく見つめることができなくなる。

だから、コーチには正しく新しい知識と、広い経験と、常に学び続ける姿勢が不可欠だ。コースも道具も、スポーツ医学も、心理学も、ルールも変わり続ける。競争相手もユニークな方法で研鑽を続ける。データを信じ、複数のシナリオを用意し冷静に選択する戦略も、すべてをつなげて総合的に判断・対応しなければならない。

目澤氏はこういう。「(たとえ改善方法が明確でも)一つの答えをパッと出すことが、いい方向に向かいうとは限りません。選手が自分で答えを見つけるまでの工程に時間をかけること」が重要だと。

しかし、選手(クライアント)の性格もいろいろ。その人にあったアプローチをすることが重要なのだと思う。要は、選手のスイッチをどのように入れるか。コーチが入れるのではない。選手自身が入れられるようにコーチがどのように手助けするかだ。ベストセラー「一兆ドルコーチ」の主人公ビル・キャンベルの様に、ずけずけストレートなアドバイスをするコーチもいる。相手の気付きを促し覚醒させるためにとるアプローチは一様ではないのだ。

これからのビジネスコーチのあるべき姿を考えてみたい。今までも同様のことを書いてきたが、人類史上最も変化の激しい時代。今までの延長線上に未来はない。自らが変化を先取りするように変革を続けていかなければならない。政治・社会・経済はどう変わるのか、ビジネス環境はどのように影響を受けるのか、テクノロジーはどう変わるのか、地政学的変化やリスクはどうなのか、経営戦略に影響を与える要素はどう変わっていくのか、人事(人材資本)戦略、知財戦略、マーケティング戦略、財務戦略、アライアンス・M&A戦略、事業開発戦略・・・広い視野と高い視座が求められる。更に、個社や業界の知識もある程度必要だろう。そして何より、事業を遂行する現場でのヒリヒリするような意思決定、葛藤の経験、失敗・成功の積み重ね、リベラルアーツに支えられた知性も後押しになろう。コーチの持つ知識や経験や知性から繰り出される多様なヒントが、クライアントの変革を呼び覚ます

PS.ビジネスコーチングにおいて、上記のような知識や経験は必ずしも必要不可欠ではない。コーチングスキルさえあればコーチングは可能だ。しかし、「1兆ドルコーチ」を読んで、あらためて経験が物を言うことを確信した。コーチ自ら悩み苦しんだ経験を疑似体験できるクライアントは、スイッチを見つけやすいはずだ。

そのような環境にあって、ビジネスパーソンは、BeingとDoingを考え続けなければならない。ところが、現実的にはそれらに正直にちゃんと向き合っている人は少ない。コーチは、クライアントにそれを気付かせ、クライアントは、人生を意図的に生きる意味を理解し、日々の行動を変える。コーチにとって最も大切なことは、クライアントは答えを自分で見つける能力を具備しているという前提を理解すること。そして、クライアントが自ら気付き、答えを発見した時ほど、強い意欲を感じ行動を起こそうと動く、という原則を理解すること。コーチはクライアントに、自己実現のために必要な課題解決能力や、立ち向かうモチベーションを引き出し、顕在化せるためのスイッチのありかを探すジャーニーに送り出す。クライアントは目的地のないジャーニーをコーチに見守られながら進むのだ。コーチのアドバイスや質問は、クライアントにあらゆる洞察をつなげて考えることを要求する。自分のパーパスと向き合うことを促し、「なぜ」の答え、即ち意志のエッジがた立った行動ができるようになる。

私はクライアントによく「鑑(かがみ)」を持ってほしいと話す。自分の心の琴線に触れる文章・言葉を書き下してもいい、手鏡に映った自分を見るのもいい。そこに映るものは「自分の規範とすべきもの」のはずだからです。「今の私は最善を尽くしているのか」と問いかけてもいい、「課題に向き合っているのか」でもいい。自分を見つめることから成長が始まると思っているからだ。

ここまで書いてふと思った。皆さんはこれはプロのコーチの話だと思っているでしょ。それは大きな間違い。企業におけるコーチングはマネージャやリーダーに共通して必要とされる行いだ。部下やチームメンバーがエナジャイズされやりがいを感じて仕事をしてほしいですよね。そしてその結果、大きな成果がついてくるとしたら、そんな楽しいことはありません。チームは活性化され、協力し合って更に創造的な仕事にチャレンジするでしょう。そこに必要不可欠なのがコーチングです。上司による日常のコーチングがとても重要なのだ。おざなりな1on1をしている場合じゃありませんよ。

もちろん、多様な経験をした第三者のコーチの存在は、更に大きな行動の変化を生むでしょう。組織バイアスは必ずある。気付かないうちに染まっているものです。本当の問題点に到達するためには、離れたとことから俯瞰できるコーチの存在が役に立つことは間違いない。

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どこに向かうのか、どの道を選ぶのかは、自分で決めるしかない。

 

ドリルを買いに来た人は何を雇用したいのか?

■ジョブ理論

故クレイトン・クリステンセン教授が「ジョブ理論」を書いたのが2017年。私はその年に読み、企業は顧客に何を提供すべきかを学んだ。顧客は何を求めているのか? その問いに対し正解を答えられる人がほとんどいない事実も知った。私たちは見誤っていた。

顧客にとって必要なのは、プロダクトやサービスではない。必要なのはプログレス(進歩)なのだ。私たちが向き合うべきなのは、顧客が片付けたいジョブは何なのかだ。それがJTBD(Job To Be Done)。「どんな“ジョブ(用事、仕事)”を片付けたくてあなたはそのプロダクトを“雇用”するのか?」だ。「私たちが商品を買うということは基本的に、なんらかのジョブを片付けるために何かを『雇用』するということである。その商品がジョブをうまく片付けてくれたら、後日、同じジョブが発生したときに同じ商品を雇用するだろう。ジョブの片付け方に不満があれば、その商品を『解雇』し、次回には別の何かを雇用するはずだ」私たちは、顧客が特定の状況で成し遂げようとするプログレス(進歩)を理解しなければ話にならないのである。顧客は何を成し遂げたいのか? 実はこれが最も難しい。だから、ほとんどの新製品はお蔵入りになるのだ。何かを成し遂げたい(進歩したい)(=ジョブ)から使う(消費する)のだ。

クリステンセン氏の話で有名なのは「ドリル」の話。工具店にドリルを買いに来る顧客はどのドリルにするのか迷っている。それを見た工具メーカーのマーケターは、何を悩んでいるのかを想像する。価格なのか、性能なのか、使いやすさなのか、重さなのか、取り付けられるドリルの種類なのか・・・ もう少し安価にしなければだめだ、値引こうか・・・ ドリスの種類を増やさないと家庭でのユーズケースが少ないな、増やそうか・・・なんて考える。それらは根本的に顧客のジョブを見誤っている。顧客は何を雇用したいのか? ドリルを雇用したいのか? 顧客は「穴」を雇用したいだけなのだ。穴の開いた板でもいいし、穴を開けるくれる人がいたら頼めばいいのだ。ミルクシェイクの話も有名だ。朝通勤で1時間も車の運転をするドライバーがいつも寄っていく店がある。彼らの多くはなぜかミルクシェイクを買っていく。店はさらに売り上げを伸ばそうと、他の飲み物のメニューを増やす。しかし、まったくそれらは見向きもされない。なぜか? 店は顧客のジョブを分かっていないからだ。顧客は1時間のつまらない時間のお供を雇用したかったのだ。濃厚で飲みにくくてちびちび飲み続けられる相手を雇い、旅のお供にしたかったのだ。

私たちは顧客のジョブを分かっちゃいない。ニーズでもない、データを解析しても分からない、そして顧客にヒヤリングしても実は分からないのだ。ドリルを買いに来た人は穴を雇いたいとは絶対に言わないのだ。

クリステンセンは、どうやったらジョブをより具体化できるかのヒントを書いている。

「ジョブを理解するには努力が必要で、その努力は多くのマネージャーが長年実践してきたデータや数字に頼るやり方に反するものだ。
短編ドキュメンタリー映画を風に頭の中で撮影すると理解しやすい。
①その人が成し遂げようとしている進歩は何か。
②苦心している状況は何か。
③進歩を成し遂げるのを阻む障害物は何か。
④不完全な解決策で我慢し、埋め合わせの行動をとっていないか。
⑤その人にとって、よりよい解決策をもたらす品質の定義は何か。また、その解決策のために引き換えにしてもよいと思うものは何か。
この5つの問いに答えることで、ジョブをより具体化できるようになる。」と。

ジョブを理解するためには、数字ではなくストーリー、そして体験が重要だ。ここで理解しなければならないのが、デザインシンキングなのだ。デザインシンキングの中核にある重要なアプローチが「観察」や「共感」なのはそのためにあると言っても過言ではない。

 

■共創

「ジョブ理論」はイノベーションを成功させるための王道のテキストだ。しかし、詳細をここで述べるべきではない。本を読んでほしい。私がなぜクリステンセンを持ち出したか。それは近年猫も杓子も「共創」「協創」「Co-Creation」というが、実は成功している、即ちイノベーションを成功させた例が少ないことに、警鐘を鳴らしたいのだ。

イノベーションは顧客の声から生まれる」のだろうか? 先ほども書いたように、顧客の多くは「JTBD」が分かってはいない。したがって、「否」 だから例えば、「どんな商品が欲しいですか?」と問えば、性能があと3割くらい高いと嬉しいとか、もっと良い音が欲しいとか、納期を2割短縮したいとか、「JTBD」と関係なさそうなことしか言ってこないものだ。

そもそも、私たちだけでなく、顧客もすべてバイアスだらけだ。固定観念に縛られた声に耳を傾けて意味があるのだろうか。顧客のストーリーはフィルターを通して語られる。その裏にある本当の「JTBD」は声を聴いても分からない。観察するしかない。もちろん多くのケースは、顧客の顧客を観察しなければわかるまい。

そして、ある特定の顧客の観察をするだけではほぼ見間違うだろう。多くの顧客を多面的に観察して仮説を立てて、他の顧客に確認するというサイクルと、仮説をピボットしながら素早く数多く繰り返さなければならない。

共創という言葉に惑わされてはならない。本質は「JTBD」を理解すること。その手段として「共創」を否定するつもりはないが、顧客の声を信じてはならない、ということを肝に銘じてほしいのだ

だいたい、新しい事業に挑戦する、マーケターや、セールス、研究者、デザイナー、技術者などすべての人たちは、以前に紹介したような文献やクリステンセン氏の著作などを、最低限ちゃんと読んでほしい。その準備なくして新事業開発などを語るべきではない。ルールを知らずに碁会所に行くようなものだよ。

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一年の中でも最も清々しい季節になった。こんな気候の中で「Stay home」とは

寂しすぎる。しかし、感染力と重症化率が強い変異種が蔓延してきた今、

感染しても入院もままならない日が来るのは必至な今、

我慢するのが国民の義務と言える。

国や自治体や医師会に言いたいことはたくさんあるけどね。

 

反応という触媒

反応しない」という行動は一種のメッセージになってしまう。そうでなくても表情を読み取れないリモートワーク。Zoomなどですら、今ひとつ。ましてTeamsやSlackなど社内SNSツールでは、何も書かなければ何も伝わらない。

「伝わらない」んじゃなく、「共感しない」「面白くない」「同意しない」「そんなのどうでもいいよ」・・・などの否定的なメッセージと捉えられる。そうでなくても孤独なリモートワークでは強いインパクになりえる。

リモートワークにおいても、いえ、だからこそ、共感し、シンクロし、心が通じ、チームの助け合いが起こり、ポジティブな壁打ちができ、誰も置いていかない、問題はコミュニケーションによって解決でき、化学反応を楽しみ、全員がオーナーシップを感じる、そんな「」を作り出さなければならない。

だからこそ「反応」は必要不可欠なんだ。「心理的安全性」とは「反応を楽しむこと」に他ならないのだと思う。フランクで前向きなつながりを楽しもう。

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遊歩道も静まり返る。2年続けて静かなGWになってしまう。過ごし方を考えましょう。

映画館も1年数か月行っていないな。食べることに楽しみを見出すと、太って困る。

さて、なにをしようか。