2024 恐ろしい扉が開いてしまうのか

今年はアメリカ大統領選挙が行われる。誰もがバイデン対トランプだと予想している。そのような最中イスラエルパレスチナの戦争だ。バイデンはイスラエルを全面支援する姿勢を示しているが、イスラエルハマス殲滅行動で民間人が大量に犠牲になる事実を前にして、相当困っているようにも感じる。実はアメリカのZ世代はイスラエルではなくパレスチナを支持していると言われる。イアン・ブレマー氏によると「バイデンはアラブ系アメリカ人の票の獲得が難しい状況だ。彼らはミシガン州では人口の約5%、ペンシルバニア州では人口の2.3%を占め、選挙結果を左右する重要な浮動票となる」この戦争はバイデンにとって大きなマイナス要因だ。でも、考えてみれば共和党特にトランプは更に強硬な親イスラエル派なわけで、トランプにとっても頭の痛い状況なはずでも、国民の心は時の政権への不満に動く。そんなものだと感じる。トランプが復活する姿は想像もしたくないが、前回の選挙の様に最後まで予想のつかない展開になるのではないだろうか。

ロシアはプーチンで決まりだろうが、心配していた台湾は民進党頼正徳氏が当選し、民主主義陣営を守るためには追い風になった。その中でウクライナ支援のエネルギーは縮小していく今年の世界は揺れ続ける。悲しい動向になろうが、僕たちは直視し続けなければならない。

 

国民が政治を決める主権在民は国民が理性と客観性を持っていることが前提だ。しかし、そんな前提など絶対に成立しないと感じざるを得ない。残念ながら国民に正しい判断力など期待できない。SNSやメディアにフェイクニュースが溢れ、トランプ氏自身がバイデン氏のことを極左と罵る。自身が自分に資する極端なイメージを刷り込み、愚かな国民がそれに踊らされる。そこに知的な判断力など存在しないかのように。残念ながらそれが実態であり、トランプ氏をはじめとする政治家の多くは、国民は愚かだからいかようにも操縦できると舐めてくさっている。舐めているという意思がないのだとすれば、狂っているとしか言いようがない。日本でも同じだ。どうせ国民は喉元過ぎれば熱さを忘れるからしばらく大人しくしていればいいと、厚顔無恥を押し通す。

トランプ氏が共和党予備選初戦アイオワ州を制し第2戦ニューハンプシャー州も制してしまった。今頃ロシアや中国やイランの専制政治体制の人々は笑っているに違いない。民主主義は自滅に進んでいると。

 

続きはまた書こう。

冷たい冬の後には、必ず春が来る。
本当に来るのだろうか。

 

前向きなフィードバックは充実感を連れてくる

「充実感」を感じた時を想像してみてください。

僕は満たされた感覚や精神的な幸せを頭に描く。日々充実した時間を送れたと実感できれば、こんな幸せなことはない。しかし、「あなたはどのような時に充実感を感じますか?」の問いかけに、「何かを完遂した時」と答える人は多い。もちろんよく分かる。「やり切った感」は何にも増して充実感を連れてくる。しかし、それではめったに現れないことを指してしまう。任せられているプロジェクトが成功に終わるなどというシーンは年に一度という感じのサイクルになってしまう。それではずいぶん寂しいではないかと思う。

もっと日常に「充実感」を感じる瞬間を創り出せないだろうか? 実は、それはリーダーの振る舞い一つにかかっていると思っている。何かの目的で集まったミーティングは、テーマの難易度が高い程、満足を得られる結論は出にくい。時間切れになったり、議論が空中分解したり、ストレスを感じたり、スカッとはしないものだ。しかし、チームが頭脳を持ちより真剣に議論したはずで、結論は出ずとも間違いなく一定の進捗を果たしたはずだ。多様な意見があることが分かったとか、混沌の中に一筋の光を感じたとか。ただ、都合の良い結論に至っていないだけだ。

そこで、リーダーの果たすべき役割は、進捗を客観視し肯定することだと思ってほしいのだ。抽象的でもいい。自分の感覚でいい。「A君の意見には驚いた。全く僕には気付かない新しい視点だった。次に進む素晴らしいヒントを得られた」とか、「問題点がたくさん出たね。僕は大分見えてきた感覚を得ているよ。トンネルの先に明かりが見えてきた」でもいい、「ありがとう、みんなの真剣さがよく分かったよ。それだけ難しい課題だったわけだ。今日は時間切れだったけれど、きっと次回には皆が腹落ちできる解を得られると確信している」という表現もある。要するに、リーダーは確実に進んだということ、この先にゴールは見えるという希望を口に出すことが重要なのである。悶々とした時間が報われる瞬間を生み出すのだ。そして、「また明日集まろう。皆の協力で必ず前向きな案を決めよう」と締めればいい。

充実感は毎日得られた方が良いに決まっている。そしてそれは、リーダーのる舞いやフィードバックによって如何様にも演出できるのである。皆の気持ちを受け止めて将来にスポットライトを当てればいいのだ。決して難しいことではない。

すぐにでもやってみよう!

大分登ったね。もうすぐ登りきるさ。

 

ぐうの音も出ない「バイオリージョン」とは ~成長から成熟へ~

年末に様々な雑誌で2024年予測とか2030年予測というような将来を洞察する特集が組まれた。いくつかを斜め読みしたが、今年は大荒れになりそうだ。それは記事を読むまでもなく、既に存在していた昨年後半からの動きが一層加速化するという流れが呼び覚ます直観であり、恐らくほとんどの人が感じていたことだと想像する。

例えば、ウクライナ戦争はロシア優位のまま続きそうだとか、ロシア、イラン、北朝鮮の現状の民主主義国家の秩序拒否姿勢は強まりながら続くだろうとか、アメリカ大統領選挙いかんでは敵対勢力はアメリカの決意(どこまで本気で世界の秩序をアメリカがリーダーシップを発揮して守ろうとするか)を試す行為に出るだろうとか、アメリカ主導の経済秩序は停滞するだろうとか、習近平政権統率力は経済の低迷の影響もあり低下するだろうとか、中東の混迷は世界を翻弄させ、中ロイラン主導の秩序が進むだろうとか、AI失業が現実化するとか様々だ。残念ながらほとんどすべてが混沌を深める方向ばかりだ。今年は何が起きるか分からない

そんな中、「東洋経済2024年大予測」に載った「ポスト資本主義」と題してジェレミー・リフキン氏のインタビュー記事が目を引いた。

地政学的な発想は時代遅れだ。なぜならば、気候変動によって住み慣れた土地から離れざるを得ない人たちが、たくさんの数に上るからだ。そこで重要なのが、バイオリージョンの考え方であり、人間の持つ生命愛や他者への共感力だ。私は若い世代の人たちの行動力に期待している」

バイオリージョン(生命地域)。「国家の主権や地域の自治権はもちろん存在し続けるが、共通の生態系を『コモン(共有材)』として重視する統治の必要性が高まっている

これでは、いったい何を言っているのか分かりにくい。記事も短絡した書き方をし過ぎだ。松下政経塾の藤沢祐美さんはこう言っている。「バイオリージョンとは、人間の都合による境界線ではなく、自然の特徴により、一つのまとまりを持った地域と認められるものであり、多くの場合、一つの河川の流域、あるいはいくつかの地域を集めたものと重なっている。バイオリージョナリズムは、私たちの生活の場である地域を、『多様な生物の共生的な相互関係が、持続性を保証する一つのまとまりを持ったシステム』ととらえ、それぞれの土地をよく観察し、その持続性を損なわないための自然の制約条件を見極め、これらの条件を人間社会のありかた(政治、経済、文化)に組み入れることが不可欠と考えるものである」

ちょっと分かりにくいが、僕は、自然の上に成り立っている私たちの生活の場の持続性を損なわないためには、自然の制約を理解し、その上で人間社会を構築することが必要だというように読み取った。

リフキン氏は更にこう言う。「統治の仕方としては、工業化の時代にスタンダードとなった代議制民主主義を見直し『分散型ピア(対等者)政治』に道を譲る必要がある。これは市民一人ひとりが統治の過程そのものの一部となるというものだ。地方自治体は市民に協力を求め、市民は『ピア議会』(ピア主導の能動的な市民議会)に参加して、自治体と共に働く」

きっと、工業社会を前提とした社会のシステム、即ち経済が生態系を壊していくことを前提としている時代は終焉を迎え、自然と共生するためには一人一人が地方自治の一員となり能動的に政治や行政に関り、自分たちの生物圏・生態系の統治を進める社会に変わっていくという意味なのだろうと思う。自然を含めた生活圏の自治市民一人ひとりに委ねられる時代になるということだろう。

 

この視座の高さをどう表現すればいいのだろうか。限界費用ゼロ社会」でも彼のあまりに高潔な意見に圧倒されたが、今回の彼の意見も同様に清廉過ぎて根本的過ぎて、流れを俯瞰する力にぐうの音も出ないのだ。

限界費用ゼロ社会」でもコモンズの概念などが書かれていたっけ。地産地消、ローカルで最適な社会を自らの力で構築するような考え方だ。都会で金銭的な贅沢や、口は出すけど汗はかかないという価値観とは全く違った将来の在り方だ。少子高齢化の先にはそのようなコモンズの社会様式が、特に地方では必要になっていくように感じる。

力強い経済成長、十分な税収、温暖化など将来の生活に影響を与える地政学的変化など気にする必要がない。そんな時代はとうに終わった。環境を壊さず、自然と共生し、そしてそれにはコストはかけられない。それでいて十分ウェルビーイングな生き方を目指す社会。それには個人個人の我儘や強欲さは邪魔になる。市民一人ひとりが地域の統治に関り、どうあるべきかを考え行動する。なんでも国にぶる下がることはもうできない。地域が自律して問題を解決していく社会だ。

世界は成長モードから成熟モードへと変わろうとしてるのだ。これは一人一人が社会に対して果たす責任が重たくなることを示し、オーナーシップを持つことから逃れられない状況になることを示していると思う。

地域の皆さんと同じベンチに座ることができない人はすごく多いと思う。
でも、そうすることが生き残る術だと分かれば、きっと自然とできるようになる。

 

民主主義の未来 日本の役割は

戦後生まれの僕たちは民主的な国に生まれ育った。もちろん日本的な特徴はあるものの、民主主義国家の典型だろう。それが当たり前に感じてしまっているが、世界を見渡せばそれが当たり前ではないことに気付く。

スウェーデンの研究所が、世界の民主主義の状況を分析している。昨年1月にNHKの解説委員会室というサイトで紹介された。その時点で、世界の中で民主的な国が60ヵ国に対し、非民主的な国が119ヵ国あるという。(「公正な選挙」「基本的人権の尊重」「言論の自由」「女性の社会進出」などの基準を設けて世界の国々の実態を調査した)

更に、非民主的な国の中で、民主化の方向に向かっている国がどれくらいあるかというと、1999年の約70ヵ国から2021年で15ヵ国と一気に減ってきている。ところが権威主義(政治権力を一部の指導者が独占する)を強めている国は33ヵ国と過去最高になっているのだ。皆さんもそうだと思うが、その数字には驚かされた。同時にすごく落胆した。世界は「僕らの当たり前」の方向には向かっていない。

皆さんも覚えてるでしょう。アラブの春。あれは2010年のことだった。あの時、多くの国が一気に民主化に進むものと期待していた。しかし、民主化に進んだように見えた国々で、国民は新しい指導者に失望し、反動的な指導者に走った結果上記のような状況になったと言われているのだ。格差の拡大、腐敗、移民問題、飢餓・・・諸々の社会問題を抱えると、民主的な価値観に拘らず、現状を打破してくれそうな強権的なリーダーを求めてしまうのだ。その裏には、ロシアや中国がSNSなどで民衆を煽る偽情報を流したことも影響しているといわれる。

今、世界は正に二分されている。民主的か専制的かだ。民主主義か非民主主義と言い換えてもいいだろう。残念ながら民主化の流れは加速している。それは混沌とした社会が強いリーダーを求めた結果だといえる強いリーダーは必ず暴走する。国民には都合の良い情報しか流さず、結局国民を騙し続ける。それに気付いた時に暴動が起き政権が倒れる。そんなことが今まで何回も繰り返されてきた。フランスはその典型だ。

昨年民主主義サミットが行われたが、そのような結束を呼びかけ、グローバルサウスを取り込もうとするような動きは、かえって非民主主義国を頑なにさせ、溝が深まるだけの結果しか生まなかったのではないだろうか。非民主主義国は民主主義国を分断を煽る傲慢な国だと思っている。お互いを批判すればするほど、または仲間を集めようとすればするほど溝は深まり、埋めようとする努力自体が無駄に感じてくる。

今年は、アメリカ、台湾、ロシアなどの大型選挙が続く。ヨーロッパでは極右が台頭し、ウクライナ疲れと相まって、安心していられない状況が続く。アメリカ主導連合と、中ロ主導連合の競合、ナショナリズムの進行などが益々進行する年になるだろう。もしアメリカに再びトランプ政権が発足したら、中・ロ・北朝鮮・イランなど敵対勢力がアメリカの決意を試すような試みをするかもしれない。反応を推し測ったり値踏みをするかのように。アメリカは甘く見られないように強硬な姿勢に出るだろう。一歩間違えば一触即発だ。2024年はとても恐ろしい年になるかもしれない。

日本の役割は何なのだろうか。足元では内向きの話に終始する国内事情。グローバルリーダーシップに意識が向く様子はない。これでいいのか日本。次の選挙は国民の見識が問われる。国民は内向きに終始するような姿勢にならないでほしい。

花びらが一枚一枚落ちるのが山茶花。これは私の住むマンションに咲く山茶花
この街には山茶花の木がたくさん植えられていることに気付いた。

 

Giverの人生

アダム・グラントは言っている。「社会通念によれば、大成功を収めている人々はみな、モチベーション、スキル、チャンスの3つを持っているという(中略)。しかし、実は4つ目の要素がある。他者との接し方だ。できる限り[自分のために]価値を得ようとするか、それとも他者に価値を与えようとするか(後略)。どうやらこの選択が、成功を収められるかどうかに圧倒的に影響をもたらすようだ」

 

アダム・グラントの「GIVE&TAKE『与える人こそ成功する時代』」を読んで、僕は考えさせられた。(前にも書いたが、彼はペンシルバニア大学ウォートンスクール組織心理学の教授で、現在42歳。28歳の時に終身教授になるという天才学者だ。以前に彼の書いた「THINK AGAIN 『発想を変える、思い込みを手放す』」を読んで、かつての自分を顧みて反省するとともに、人生観を変えた。) 僕は今どう在りたいと思って生きているのか? 自分の潜在的意識と向き合い、問いかけたときにめぐり合ったのが「GIVE&TAKE」だったのだ。そうだ、僕は与える人「Giver」で在りたいと思っているんだと。振り返ってみると、そんな人生だったと思う。「伝えたいことがある」「成長してほしい」などと思って他者を思って行動してきたし、会社員の時も社内ブログ(約400通発信した)を書き続け若い人の役に立ちたいと思い続けていた。率先して多くの人のメンターを買って出た。ある期間には20人くらいのメンターをしていた。多くの人は僕のことを「珍しい人」だと感じていただろう。しかし、それが伝わった人もいて、見ず知らずのどこのだれか知らない人(少なくともグループ社員ではある)からメールをもらったり、突然席に訪ねてきたりして、何度となく頼みごとをされた。これには僕も驚いた。そして、僕は見ず知らずの人の頼みをことごとくできる限り解決するよう行動したのだ。決して嫌なことではなかった。できる限り何とかしてあげようと心からそう思った。自分ではできないことは、友人に対応をお願いしたりもした。(会ったこともない)幹部であった僕に遠慮なく頼みごとをする人の勇気には恐れ入るが、間違いないことは、相手は僕のことを「Giver」だと確信していたんだと思う。それを今となって悟った。それに、僕はそうありたいと思っていたんだと。それが僕の人生観なのだとも。

 

それが老いぼれになっても「森の様にマイナスイオンを出し、周りの人に1/fの揺らぎを感じてもらいたい」などと言わせているのだと思う。

こんなものを食らっているくらいだから、老いぼれてる場合じゃないか(笑)
まるでガテン系向け?。味はすき焼きライクで美味しいよ。

クライアントを訪問した帰りに初めて食べたの。どんなもんか興味津々でね。@溝口
今年も元気にいこう(^^♪

 

ダイハツの検査不正で締めくくることになってしまった2023~日本企業は考え直す時~

今年ももうお終いという時に、また大企業の不祥事が起きてしまった。ダイハツの検査不正だ。皆さんもメディアの報に触れられたと思う。工場は全面停止し、いつ再開できるかの目途も立っていない。

日経新聞によれば、検査不正は64車種3エンジンに及ぶということだ。例えばエアバックの試験では、本来センサーが衝突を感知しコンピューターでエアバックを作動させるのだが、試験時点ではコンピューターができていなく、タイマーをかけそれにより作動させて試験としていたということだ。それでは事故を想定した試験になるはずもなく、全く意味のない試験で済ませていたことになる。それ以外にも、虚偽の数値を提出していたり、法定で定まっている速度で試験をせずに認証申請をしていたなどなど、あまりにお粗末で露骨な不正ばかりだ。

なぜこのような不正を犯してしまうのだろうか。競合他社との競争が激化し、新車の開発期間を短縮することが至上命題だった点や、過度なコスト削減が行き過ぎ、衝突試験を担う安全性能担当部署の人員が12年間で1/3になっていた点が指摘されている。

皆さんの記憶に新しいのが22年の日野自動車排ガス不正だが、日産、スバル、スズキ、ヤマハなどがここ5年余りの間に続いていたのだ。自動車業界だけではない、先日書いた沢井製薬もそうだったし、実は枚挙にいとまがないほど不祥事は多発しているのだ。

以前にも書いたが、この裏には極度の業績至上主義があり、それが原因となっている可能性が高いと考える。特に、日本企業は上司の命令は絶対であり、組織は支配的ヒエラルキーで、あるべき論が正義とされる男性性むき出しのカルチャーに犯されている。正しいことより、命令に従うことを是とし、命令を守れないと出直しがきかない、違った意見を持っていてもそれを発することはできない、というような価値観が蔓延しているのだ。それは倫理より優先し、そうしなければ組織の中で存在し得ないと思い込んでいる。組織の優先順位と個人の優先順位は必ず同じことが当たり前だ、それが社会規範だと、空気の様に身体に沁み込んでいる。そこに多様性など存在しない言わなくても分かるだろ。そんな環境の中で流されて生きてきたのだ。

社長は、社員が悪いのではなく、経営陣が悪いと言っていたが、それにも違和感がある。長い間に積もり積もって出来上がったカルチャーなのだ。全員が悪い。それを治すためには、あらゆるものを総合的に治していかなければ絶対完治しない。社長を変えても、何かに手を入れても治らない。多様性を進め(「多様な意見は秩序を乱す脅威ではない。組織や社会を活性化する力だ。第三者に意見を求めるのは、チームへの忠誠心が足りないからではなく、忠誠心が高いからこそ」マシュー・サイド)、支配的ヒエラルキーをすべて壊し男性性むき出しの価値観やコミュニケーションを、より女性性あふれるものにシフトし、職場に心理的安全性を取り戻し、ムラ社会ハイコンテクストを前提とする同調圧力を一掃すべく、リーダーを再教育し、完遂することより最善を尽くすことを美学とする価値観に変え、現場革新の価値を尊重し、権限を大幅に委譲し、上層部の圧力あふれるメッセージを撲滅させ、ボトムアップの「Better than best」を良しとするカルチャーに変革することなどが、必要不可欠だと思う。

これには一朝一夕にはいかない努力と期間が必要だ。決してトップの強い圧力を感じるリーダーシップで乗り切ろうなどと考えない方がいいと思う。こういう時こそ、ボトムアップで社員の知恵と情熱を集合して、とことん話し合って一致団結して乗り切ってほしいものだ。

企業の皆さん。これは絶対に他人事ではありませんよ。

頼むぞ日本!! 

 

自民党の驕慢ぶりに呆れかえる

その自民党の驕慢(きょうまん:驕りたかぶること。人を侮って勝手に振舞うさま)ぶりがひどくなっている。かと言って野党の実力不足は目を覆うばかりの状況が続き、野党に政権を委ねる気にはならない。自民党国民を舐めている統一教会にせよ金の問題にせよ、女性問題やパワハラについても、大人しくしていれば国民はすぐ忘れる。または、どうせ多くの国民は新聞は読まないし、ニュースも見ない。そもそもメディアのお粗末さは本質をついていない。なんて舐めきっている。「捜査中であり、差し控えさせていただきます」だって。結局は「悪い結果を招かないように余計なことは話さない」と「隠したい」気持ちの現れでしょ。検察に話すことと同じことを話すのであれば何も捜査に影響が出るわけじゃないし、それって、検察にもできる限り本当のことを話さないつもりだということを指しているとしか思えない。後で矛盾が出るとまずいんでしょ。正直に話す分には全く問題ないわけだからね。
国民は自民党がここまで驕慢だと、お仕置きをしないと変らないなと思い始めている。テレビで顔を見るたびに顔に驕慢ですと書いてある自民党議員の顔を観るのは辟易だ。それに、今回の安倍派議員の交代に関して、上川さんが官房長官の候補になっていると聞き呆れ返った。外交が非常に重要な局面で信頼関係を急ピッチで築くことに成功した彼女を、急場しのぎに使うなんてなんてビジョンがないのかと。幸いそうならなかったが、メディアもそういう価値観を示したものはなかった。情けない。実は、以前上川さんの勉強会にずっと参加していたので、彼女のことはよく存じ上げている。議員会館を訪ね、女性活躍の政策提言をしたこともある(自民党の女性活躍推進本部長だった頃)。法務大臣を5度だったかやり、そのほかも特命担当大臣副大臣を務めていたが、主要なポジションでなかったせいか国民にはあまり知られていない。とても有能で学習意欲の高い方だと思っている。これから自民党を支えてほしいと願っている。
 
実はずっと前から政治家を中心とする人たちが使うオーナーシップや矜持を感じない空虚な言い回しに、不快感を感じ続けてきた。多くの人たちも同様ではないだろうか。例えば、「しっかり」「先頭に立って」だって。そんなの当たり前じゃないか。それがリーダーでしょ。そんな言い回しは、リーダーシップのない人の背伸びでしかない。かえってマイナスだと思わないのかね。最低だ。そして今回の「火の玉になって」だ。どんどん情緒的な言い回しに退化し、ついに太平洋戦争の国営放送の言い回しになってきた。プロパガンダじゃないか、と感じちゃう。国民を舐めているよね。酷すぎる。そのような表現で国民を信じさせようとしているのだとしたら、あまりにも浅はかだ。そんなことでリーダーシップや決断力がある人だなどと誰も感じない。
 
日本の将来は大丈夫だろうか? 我々の代表は誰が最適なのか真剣に考えるときだ。でも、いないだよね。悲し過ぎる

椿か山茶花か。よく分からん。
与党と野党は一目瞭然。
花も政党も冬の様相。日本の冬も続くのかな(涙)。