間違ったフォロワーが組織を迷路に連れていく残念な事実

今年はAudibeleを聴き始めて読書量が増えてます。乱読のせいで気付いたことがあります。それは本屋大賞などの受賞小説を読み重ねると、食傷気味になることです。「不条理」を感じるシナリオがとても多いことによります。要するに「不条理疲れ」に陥るのです。暗く、辛く、どんより落ち込むのです。あらためて、この手の小説がとても多いことに気付きました。きっと一種のブームなのでしょうね。そういえば、宮部みゆきさんの小説が人気なのはそんな理由なのかもしれない(私感)と思ったりもします。最近はそのような小説を避けるようにしています。また、いつか読みたくなるのかもしれませんが・・・ 人間はどこかで不条理を求めているのかもしれません。

 

さて、今日はリーダーシップとフォロワーシップの話から始めましょう。以前にも少し書いたと思います。リーダー一人が存在すれば組織が機能するわけではありません。組織にはそのリーダーシップの下で仕事が円滑に進められる機能を発揮する人たちが必要なのです。当たり前ですよね。その人たちのことをフォロワーと言います。リーダーとフォロワーはペアで機能すると言ってもいいでしょう。

そのフォロワーは、いちいちリーダーが指示しないと動かないようではその組織のパワーはすぐ限界になります。即ち、フォロワーは自律的に動けなければなりません。自律人材の話も書きましたね。目標に向かって確実に進んでいけるよう、進言したり、他者が不足する機能を補ったり、協力し合ったりすることができなければなりません。ところが、私たちの組織の中に存在するフォロワーの多くは、リーダーの顔色を伺い指示を待ち、リーダーの意向を忖度し、リーダーの為だけに働きます。いわゆるイエスマンです。リーダーの言うことは絶対だという揺るぎない価値観で成り立っているようです。

大きな組織のリーダーは、大抵直轄のスタッフを有していますね。経理や予算管理をしたり、人事や総務的な機能を有したり、事業戦略を担ったり、人材育成を担当したりもします。注意しなければならないのは、そのリーダーが強いリーダーシップを発揮する(俺についてこい的「率いるリーダーシップ」に染まっている)人だったり、更にその人を頂点とする「支配的ヒエラルキー組織」が出来上がっている場合です。

そのような組織のトップの配下にいるスタッフのほとんどは、自分たちはそのリーダーのために存在すると思っています。即ち、上記のようなイエスマン集団の可能性が高いと思われます。それが大きな問題です。そのようなスタッフに囲まれたリーダーはまるで「裸の王様」です。戦略や人事やメッセージに至るまで、それが間違っていようが、悪影響を及ぼしかねなかろうが、誰もその懸念を伝える人がいません。トップは直接末端の部下たちと対話することはなく、仮にあったとしても、耳の痛いことを進言しようものなら懲罰を受けると思っている部下たちは、決してリスクを冒しません。

組織の力はそがれ、構成する人材のモチベーションは下がり、人材はどんどん流出します。

リーダーとフォロワーの関係はそれくらい重要なのです。強いリーダーが作るその関係は、問題を抱える可能性が高いと判断し、自組織の関係性やそれによって構築されてきたカルチャーを観察した方がいいし、もし上記のような状況であれば、それを変革するようなウェーブを起こさなければなりません。

 

そのようなリーダーあるいは組織は、もう一つ大きな問題を抱えます。特に上記のようなスタッフは、多くの場合優秀で事務処理能力は高く、いわゆる「良い子」です。無垢で優秀な集団は、自分たちが創り上げた裸の王様によってどんどん「クローン化」されていきます。最初は疑問に思っていた人たちも同質化していくのです。元々は優秀な人たちは、まるで無知な集団になっていきます。仮に、その組織に新たに優秀な人が合流したとしても、必ず組織に適合するように努力するものです。優秀であればあるほど努力します。それに、以前からその組織にいた人々は間違いなく転入者に厳しい。尊敬するリーダーの価値観にアラインするよう矯正します。仮に、素直に疑問を挟もうものなら「知らないくせに」とマウントを取られます。そして、そのような声は発せられなくなっていきます。

これはとても大きな問題です。組織は、まるで一旦切れた脳のシナプスが再びつながるように、自動的に再生はされません。治すためには、革命的なリーダーシップや心理的安全性を再生する強烈なボトムアップが必要不可欠です。外の力を借りる手もあります。経営陣が心を開き自由に問題を直視できるように、コーチの力を借りて合宿など時間をかけて向き合い続けるプロセスを意図的に作ることです。

 

リーダーのパーソナリティーやその組織のカルチャーは、スタッフの行動を見れば薄々分かります。スタッフは常にリーダーの行動を見ています。メッセージに耳を傾け、顔色を伺っています。そして、リーダーの意向を忖度して、組織構成部門に指示を出していきます。もちろん、良かれと思ってやるのです。リーダーの日常は一見とても楽になります。リーダーはスタッフたちを「うい奴じゃ」と思うのです。こうなるともういかんともしがない状況です。スタッフのマインドは更にリーダーフォーカスになります。本来は、現場・現物・現実に向かなければならないし、ステークホルダーの感情にも耳を貸さなければならないし、将来の洞察を進めなければならないし、リーダーにとって耳の痛い事実や洞察を上げなければならないはずなのに。

「画一的な集団が抱え込む最も根深い問題は、情報やデータを的確に理解できないとか、間違った答えを出すとか、与えられたチャンスを十分に活かせないとかいったことではない。真の問題は、本来見なければならないデーターや、訊かなければならない質問や、捕まえなければならないチャンスを、自分たちが逃がしていることに気付いていないことだ」(多様性の科学 マシュー・サイド) 本当にそう思います。

 

私は思います。日本の組織、そしてリーダーは多くの場合は倫理的で、社会のために仕事をしていると自覚しています。神輿に乗って感覚が狂っていたり、自分が育ったプロセスで、強烈なリーダーが成功してきた現実に染まり、それが王道のマネジメントだと勘違いしていたりしているだけです。即ち、話せば分かるはずです。多くの信頼できる部下たちからはっきりと指摘されれば、きっと目が覚めるはずだと思うのです。

皆さんは理想的なフォロワーであるはずです。躊躇は不要だと思うのです。

フォロワーは鳥かごから出なければ同質性のパラドックスから逃れられません。
@TRIO