僕たちの幸せは計測可能だろうか。幸せは日常に寄り添ってくれているのだろうか。ロシアはどこに向かいたいのだろうか。デフォルトにまっしぐら。失敗した計画経済に戻せば国民は幸せだとでも思っているのだろうか。悶々とする毎日。そんな時にこんな話を読んだ。
今から丁度54年前の1968年3月18日カンザス大学でR・ケネディーが行った演説。1968年と言えば、3か月後の6月5日に彼は銃撃により暗殺されている。ご存じの通り、兄である大統領ジョン・F・ケネディはその5年前に同様に暗殺されている。
彼の演説は、今まさに行き過ぎた資本主義や株主至上主義を予見したような内容で、いかに卓越した政治家であるかがよく分かる。
主旨はこうだ。
「私たちはずっと前から個人の優秀さや共同体の価値を、単なるモノの量で測るようになってしまった。
この国のGDPは、8,000億ドルを越えた。しかし、もしGDPでアメリカ合衆国の価値を計れるのなら、GDPには、大気汚染やたばこの広告や交通事故で出動する救急車も含まれている。
GDPには、ナパーム弾や核弾頭、街で起きた暴動を鎮圧するために武装した警察の車両も含まれている。
GDPには、玄関の特殊な鍵、囚人を囲う牢屋、森林の破壊、都市の無秩序な拡大による大自然の喪失も含まれている。
GDPには、ライフルやナイフ、子供のおもちゃを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれている。
一方、GDPには、子供たちの健康や教育の質、遊ぶ喜びは入っていない。
GDPには、詩の美しさや夫婦の絆の強さ、公の議論の知性や、公務員の高潔さは入っていない。
GDPには、私たちに機転や勇気も、知恵や学びも、思いやりや国への貢献も入っていいない。
つまり、GDPは、私たちの人生を意味あるものにしてくれるものを何も測ることはできないのだ。
GDPは、私たちがアメリカ人であることを誇りに思えることについて、一切教えてくれないのだ。
もし、それがこの国において真実であるなら、世界中のどの国でもやはり真実だろう。」
僕たちは数字に縛られている。給与や貯金。仕事上の売り上げや利益の予算。それが満足のいく量でなくても、それが達成できなくても、地球の温暖化は進むし、戦争は止まらない。
数字で計測できないものはマネージできない。確かにそうかもしれない。しかし、計測できないものの方がはるかに大切だったりする。僕たちが真剣に向き合うべきものは、何なのだろうか。幸せって何なのだろうか。
なぜ、傲慢がまかり通るのだろうか。