3.11に思う

3.11 東日本大震災から10年がたつ。都会の高層ビルのオフィスにいた僕は、前日に痛めたギックリ腰のせいで階段が下りられなく、止まったエレベーターのせいで、乾パンを食べておとなしく夜を明かした。それからの毎日のことはよく覚えている。

福島原発事故に関していろいろ語られてきたけれど、先日の報道によれば、最近になって判明した事実も多く、あの水素爆発やメルトダウンは避けられたかもしれない。原発のような人命にかかわる重要インフラでるにも係わらず、長期間使用継続する設備の構造やリスクに関して正しく理解している人の知識や体制や精神や文化や訓練が、サステナブルに維持強化されていなかった状況だったと理解した。

2/28 福島第一原発3号機の使用済み核燃料566本を取り出し完了したと報道された。もちろん私たちにとってそれは一筋の光であることは間違いない。しかし、それも予定より4年4か月遅れ。更に、メルトダウンした核燃料の処分は未だ全く目途すら立っていない。とてつもなく長い道のりを進まなければならない。

最近分かったことのひとつは、非常用復水器の訓練をしていなかったということ。北米では毎年それを非常時に備えて動かす訓練をしている。しかし日本ではしていなかった。それが冷却ができているのか否かの判断ミスにつながった可能性がある。

なぜ非常事態を想定しやるべき訓練をしなかったのであろうか。そんな非常事態が起こるわけがないという決めつけ。津波の高さもそう。研究者の予想は既存の防波堤をゆうに超える高さの津波が起こりえるというものだったが、防波堤は強化されることはなかった。

日本人が苦手なこと。それは最悪の事態を想定して対策・訓練をすること。ホラーストーリーは語られない。見たくないものは見ない。

今までも何度も語られてきた「無謬性(むびゅうせい)の原則」。「ある政策・計画を成功させる責任を負った当事者・その組織は、その政策が失敗した時のことを考えたり議論したりしてはならない」即ち、絶対安全なものを作ると決めたのだから、万が一のことを前提とした議論をしてはならない。安全なんだからその必要はない。そんな議論をしたら安全ではないということを認めたことになる。という考え方なわけだ。ホラーストーリーが語られるわけがないのだ。企業においても同じ。シナリオプランニングがほとんど意味をなさないのも、都合の悪い事実に正直に向き合わない一種の官僚主義に染まっているのだ。日本人の最も悪いところ。かなり致命的にどうしようもない。

 

気が付きませんか? COVID19もそうでしょう。最悪の事態を想定した手を全く打てていない。すべて後手後手。政府も自治体も医師会も皆そう。ワクチンが効かない、感染力が強い変異種が拡がり、感染者が1日1万人になる可能性はあり得る。1千人を超えたあたりで感染病棟は満床、重症者は選別治療になり、入院待ちの人が家庭に溢れる。もちろんそんな準備は全くできていない。大丈夫だと言いたい人たち、経済優先を叫ぶ人たち、ホラーストーリーの議論を妨げてはなりません。官僚に期待はできない、医師会関係者にもできない、だったら誰に期待すればいいのだろうか。学者がもっと声を上げてほしいものです。西浦教授が去年かなりバッシングされたけれど、結局は彼の見立ては正しかった。あのような見たくない未来を共有すべき時ではないだろうか。

3.11を反省のトリガーにしなければならないと思うのですよ。

 

それができないのであれば、明らかに失政ですよね。

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ももの花は個性がある。主張を感じる。