ぐうの音も出ない「バイオリージョン」とは ~成長から成熟へ~

年末に様々な雑誌で2024年予測とか2030年予測というような将来を洞察する特集が組まれた。いくつかを斜め読みしたが、今年は大荒れになりそうだ。それは記事を読むまでもなく、既に存在していた昨年後半からの動きが一層加速化するという流れが呼び覚ます直観であり、恐らくほとんどの人が感じていたことだと想像する。

例えば、ウクライナ戦争はロシア優位のまま続きそうだとか、ロシア、イラン、北朝鮮の現状の民主主義国家の秩序拒否姿勢は強まりながら続くだろうとか、アメリカ大統領選挙いかんでは敵対勢力はアメリカの決意(どこまで本気で世界の秩序をアメリカがリーダーシップを発揮して守ろうとするか)を試す行為に出るだろうとか、アメリカ主導の経済秩序は停滞するだろうとか、習近平政権統率力は経済の低迷の影響もあり低下するだろうとか、中東の混迷は世界を翻弄させ、中ロイラン主導の秩序が進むだろうとか、AI失業が現実化するとか様々だ。残念ながらほとんどすべてが混沌を深める方向ばかりだ。今年は何が起きるか分からない

そんな中、「東洋経済2024年大予測」に載った「ポスト資本主義」と題してジェレミー・リフキン氏のインタビュー記事が目を引いた。

地政学的な発想は時代遅れだ。なぜならば、気候変動によって住み慣れた土地から離れざるを得ない人たちが、たくさんの数に上るからだ。そこで重要なのが、バイオリージョンの考え方であり、人間の持つ生命愛や他者への共感力だ。私は若い世代の人たちの行動力に期待している」

バイオリージョン(生命地域)。「国家の主権や地域の自治権はもちろん存在し続けるが、共通の生態系を『コモン(共有材)』として重視する統治の必要性が高まっている

これでは、いったい何を言っているのか分かりにくい。記事も短絡した書き方をし過ぎだ。松下政経塾の藤沢祐美さんはこう言っている。「バイオリージョンとは、人間の都合による境界線ではなく、自然の特徴により、一つのまとまりを持った地域と認められるものであり、多くの場合、一つの河川の流域、あるいはいくつかの地域を集めたものと重なっている。バイオリージョナリズムは、私たちの生活の場である地域を、『多様な生物の共生的な相互関係が、持続性を保証する一つのまとまりを持ったシステム』ととらえ、それぞれの土地をよく観察し、その持続性を損なわないための自然の制約条件を見極め、これらの条件を人間社会のありかた(政治、経済、文化)に組み入れることが不可欠と考えるものである」

ちょっと分かりにくいが、僕は、自然の上に成り立っている私たちの生活の場の持続性を損なわないためには、自然の制約を理解し、その上で人間社会を構築することが必要だというように読み取った。

リフキン氏は更にこう言う。「統治の仕方としては、工業化の時代にスタンダードとなった代議制民主主義を見直し『分散型ピア(対等者)政治』に道を譲る必要がある。これは市民一人ひとりが統治の過程そのものの一部となるというものだ。地方自治体は市民に協力を求め、市民は『ピア議会』(ピア主導の能動的な市民議会)に参加して、自治体と共に働く」

きっと、工業社会を前提とした社会のシステム、即ち経済が生態系を壊していくことを前提としている時代は終焉を迎え、自然と共生するためには一人一人が地方自治の一員となり能動的に政治や行政に関り、自分たちの生物圏・生態系の統治を進める社会に変わっていくという意味なのだろうと思う。自然を含めた生活圏の自治市民一人ひとりに委ねられる時代になるということだろう。

 

この視座の高さをどう表現すればいいのだろうか。限界費用ゼロ社会」でも彼のあまりに高潔な意見に圧倒されたが、今回の彼の意見も同様に清廉過ぎて根本的過ぎて、流れを俯瞰する力にぐうの音も出ないのだ。

限界費用ゼロ社会」でもコモンズの概念などが書かれていたっけ。地産地消、ローカルで最適な社会を自らの力で構築するような考え方だ。都会で金銭的な贅沢や、口は出すけど汗はかかないという価値観とは全く違った将来の在り方だ。少子高齢化の先にはそのようなコモンズの社会様式が、特に地方では必要になっていくように感じる。

力強い経済成長、十分な税収、温暖化など将来の生活に影響を与える地政学的変化など気にする必要がない。そんな時代はとうに終わった。環境を壊さず、自然と共生し、そしてそれにはコストはかけられない。それでいて十分ウェルビーイングな生き方を目指す社会。それには個人個人の我儘や強欲さは邪魔になる。市民一人ひとりが地域の統治に関り、どうあるべきかを考え行動する。なんでも国にぶる下がることはもうできない。地域が自律して問題を解決していく社会だ。

世界は成長モードから成熟モードへと変わろうとしてるのだ。これは一人一人が社会に対して果たす責任が重たくなることを示し、オーナーシップを持つことから逃れられない状況になることを示していると思う。

地域の皆さんと同じベンチに座ることができない人はすごく多いと思う。
でも、そうすることが生き残る術だと分かれば、きっと自然とできるようになる。

 

民主主義の未来 日本の役割は

戦後生まれの僕たちは民主的な国に生まれ育った。もちろん日本的な特徴はあるものの、民主主義国家の典型だろう。それが当たり前に感じてしまっているが、世界を見渡せばそれが当たり前ではないことに気付く。

スウェーデンの研究所が、世界の民主主義の状況を分析している。昨年1月にNHKの解説委員会室というサイトで紹介された。その時点で、世界の中で民主的な国が60ヵ国に対し、非民主的な国が119ヵ国あるという。(「公正な選挙」「基本的人権の尊重」「言論の自由」「女性の社会進出」などの基準を設けて世界の国々の実態を調査した)

更に、非民主的な国の中で、民主化の方向に向かっている国がどれくらいあるかというと、1999年の約70ヵ国から2021年で15ヵ国と一気に減ってきている。ところが権威主義(政治権力を一部の指導者が独占する)を強めている国は33ヵ国と過去最高になっているのだ。皆さんもそうだと思うが、その数字には驚かされた。同時にすごく落胆した。世界は「僕らの当たり前」の方向には向かっていない。

皆さんも覚えてるでしょう。アラブの春。あれは2010年のことだった。あの時、多くの国が一気に民主化に進むものと期待していた。しかし、民主化に進んだように見えた国々で、国民は新しい指導者に失望し、反動的な指導者に走った結果上記のような状況になったと言われているのだ。格差の拡大、腐敗、移民問題、飢餓・・・諸々の社会問題を抱えると、民主的な価値観に拘らず、現状を打破してくれそうな強権的なリーダーを求めてしまうのだ。その裏には、ロシアや中国がSNSなどで民衆を煽る偽情報を流したことも影響しているといわれる。

今、世界は正に二分されている。民主的か専制的かだ。民主主義か非民主主義と言い換えてもいいだろう。残念ながら民主化の流れは加速している。それは混沌とした社会が強いリーダーを求めた結果だといえる強いリーダーは必ず暴走する。国民には都合の良い情報しか流さず、結局国民を騙し続ける。それに気付いた時に暴動が起き政権が倒れる。そんなことが今まで何回も繰り返されてきた。フランスはその典型だ。

昨年民主主義サミットが行われたが、そのような結束を呼びかけ、グローバルサウスを取り込もうとするような動きは、かえって非民主主義国を頑なにさせ、溝が深まるだけの結果しか生まなかったのではないだろうか。非民主主義国は民主主義国を分断を煽る傲慢な国だと思っている。お互いを批判すればするほど、または仲間を集めようとすればするほど溝は深まり、埋めようとする努力自体が無駄に感じてくる。

今年は、アメリカ、台湾、ロシアなどの大型選挙が続く。ヨーロッパでは極右が台頭し、ウクライナ疲れと相まって、安心していられない状況が続く。アメリカ主導連合と、中ロ主導連合の競合、ナショナリズムの進行などが益々進行する年になるだろう。もしアメリカに再びトランプ政権が発足したら、中・ロ・北朝鮮・イランなど敵対勢力がアメリカの決意を試すような試みをするかもしれない。反応を推し測ったり値踏みをするかのように。アメリカは甘く見られないように強硬な姿勢に出るだろう。一歩間違えば一触即発だ。2024年はとても恐ろしい年になるかもしれない。

日本の役割は何なのだろうか。足元では内向きの話に終始する国内事情。グローバルリーダーシップに意識が向く様子はない。これでいいのか日本。次の選挙は国民の見識が問われる。国民は内向きに終始するような姿勢にならないでほしい。

花びらが一枚一枚落ちるのが山茶花。これは私の住むマンションに咲く山茶花
この街には山茶花の木がたくさん植えられていることに気付いた。

 

Giverの人生

アダム・グラントは言っている。「社会通念によれば、大成功を収めている人々はみな、モチベーション、スキル、チャンスの3つを持っているという(中略)。しかし、実は4つ目の要素がある。他者との接し方だ。できる限り[自分のために]価値を得ようとするか、それとも他者に価値を与えようとするか(後略)。どうやらこの選択が、成功を収められるかどうかに圧倒的に影響をもたらすようだ」

 

アダム・グラントの「GIVE&TAKE『与える人こそ成功する時代』」を読んで、僕は考えさせられた。(前にも書いたが、彼はペンシルバニア大学ウォートンスクール組織心理学の教授で、現在42歳。28歳の時に終身教授になるという天才学者だ。以前に彼の書いた「THINK AGAIN 『発想を変える、思い込みを手放す』」を読んで、かつての自分を顧みて反省するとともに、人生観を変えた。) 僕は今どう在りたいと思って生きているのか? 自分の潜在的意識と向き合い、問いかけたときにめぐり合ったのが「GIVE&TAKE」だったのだ。そうだ、僕は与える人「Giver」で在りたいと思っているんだと。振り返ってみると、そんな人生だったと思う。「伝えたいことがある」「成長してほしい」などと思って他者を思って行動してきたし、会社員の時も社内ブログ(約400通発信した)を書き続け若い人の役に立ちたいと思い続けていた。率先して多くの人のメンターを買って出た。ある期間には20人くらいのメンターをしていた。多くの人は僕のことを「珍しい人」だと感じていただろう。しかし、それが伝わった人もいて、見ず知らずのどこのだれか知らない人(少なくともグループ社員ではある)からメールをもらったり、突然席に訪ねてきたりして、何度となく頼みごとをされた。これには僕も驚いた。そして、僕は見ず知らずの人の頼みをことごとくできる限り解決するよう行動したのだ。決して嫌なことではなかった。できる限り何とかしてあげようと心からそう思った。自分ではできないことは、友人に対応をお願いしたりもした。(会ったこともない)幹部であった僕に遠慮なく頼みごとをする人の勇気には恐れ入るが、間違いないことは、相手は僕のことを「Giver」だと確信していたんだと思う。それを今となって悟った。それに、僕はそうありたいと思っていたんだと。それが僕の人生観なのだとも。

 

それが老いぼれになっても「森の様にマイナスイオンを出し、周りの人に1/fの揺らぎを感じてもらいたい」などと言わせているのだと思う。

こんなものを食らっているくらいだから、老いぼれてる場合じゃないか(笑)
まるでガテン系向け?。味はすき焼きライクで美味しいよ。

クライアントを訪問した帰りに初めて食べたの。どんなもんか興味津々でね。@溝口
今年も元気にいこう(^^♪

 

ダイハツの検査不正で締めくくることになってしまった2023~日本企業は考え直す時~

今年ももうお終いという時に、また大企業の不祥事が起きてしまった。ダイハツの検査不正だ。皆さんもメディアの報に触れられたと思う。工場は全面停止し、いつ再開できるかの目途も立っていない。

日経新聞によれば、検査不正は64車種3エンジンに及ぶということだ。例えばエアバックの試験では、本来センサーが衝突を感知しコンピューターでエアバックを作動させるのだが、試験時点ではコンピューターができていなく、タイマーをかけそれにより作動させて試験としていたということだ。それでは事故を想定した試験になるはずもなく、全く意味のない試験で済ませていたことになる。それ以外にも、虚偽の数値を提出していたり、法定で定まっている速度で試験をせずに認証申請をしていたなどなど、あまりにお粗末で露骨な不正ばかりだ。

なぜこのような不正を犯してしまうのだろうか。競合他社との競争が激化し、新車の開発期間を短縮することが至上命題だった点や、過度なコスト削減が行き過ぎ、衝突試験を担う安全性能担当部署の人員が12年間で1/3になっていた点が指摘されている。

皆さんの記憶に新しいのが22年の日野自動車排ガス不正だが、日産、スバル、スズキ、ヤマハなどがここ5年余りの間に続いていたのだ。自動車業界だけではない、先日書いた沢井製薬もそうだったし、実は枚挙にいとまがないほど不祥事は多発しているのだ。

以前にも書いたが、この裏には極度の業績至上主義があり、それが原因となっている可能性が高いと考える。特に、日本企業は上司の命令は絶対であり、組織は支配的ヒエラルキーで、あるべき論が正義とされる男性性むき出しのカルチャーに犯されている。正しいことより、命令に従うことを是とし、命令を守れないと出直しがきかない、違った意見を持っていてもそれを発することはできない、というような価値観が蔓延しているのだ。それは倫理より優先し、そうしなければ組織の中で存在し得ないと思い込んでいる。組織の優先順位と個人の優先順位は必ず同じことが当たり前だ、それが社会規範だと、空気の様に身体に沁み込んでいる。そこに多様性など存在しない言わなくても分かるだろ。そんな環境の中で流されて生きてきたのだ。

社長は、社員が悪いのではなく、経営陣が悪いと言っていたが、それにも違和感がある。長い間に積もり積もって出来上がったカルチャーなのだ。全員が悪い。それを治すためには、あらゆるものを総合的に治していかなければ絶対完治しない。社長を変えても、何かに手を入れても治らない。多様性を進め(「多様な意見は秩序を乱す脅威ではない。組織や社会を活性化する力だ。第三者に意見を求めるのは、チームへの忠誠心が足りないからではなく、忠誠心が高いからこそ」マシュー・サイド)、支配的ヒエラルキーをすべて壊し男性性むき出しの価値観やコミュニケーションを、より女性性あふれるものにシフトし、職場に心理的安全性を取り戻し、ムラ社会ハイコンテクストを前提とする同調圧力を一掃すべく、リーダーを再教育し、完遂することより最善を尽くすことを美学とする価値観に変え、現場革新の価値を尊重し、権限を大幅に委譲し、上層部の圧力あふれるメッセージを撲滅させ、ボトムアップの「Better than best」を良しとするカルチャーに変革することなどが、必要不可欠だと思う。

これには一朝一夕にはいかない努力と期間が必要だ。決してトップの強い圧力を感じるリーダーシップで乗り切ろうなどと考えない方がいいと思う。こういう時こそ、ボトムアップで社員の知恵と情熱を集合して、とことん話し合って一致団結して乗り切ってほしいものだ。

企業の皆さん。これは絶対に他人事ではありませんよ。

頼むぞ日本!! 

 

自民党の驕慢ぶりに呆れかえる

その自民党の驕慢(きょうまん:驕りたかぶること。人を侮って勝手に振舞うさま)ぶりがひどくなっている。かと言って野党の実力不足は目を覆うばかりの状況が続き、野党に政権を委ねる気にはならない。自民党国民を舐めている統一教会にせよ金の問題にせよ、女性問題やパワハラについても、大人しくしていれば国民はすぐ忘れる。または、どうせ多くの国民は新聞は読まないし、ニュースも見ない。そもそもメディアのお粗末さは本質をついていない。なんて舐めきっている。「捜査中であり、差し控えさせていただきます」だって。結局は「悪い結果を招かないように余計なことは話さない」と「隠したい」気持ちの現れでしょ。検察に話すことと同じことを話すのであれば何も捜査に影響が出るわけじゃないし、それって、検察にもできる限り本当のことを話さないつもりだということを指しているとしか思えない。後で矛盾が出るとまずいんでしょ。正直に話す分には全く問題ないわけだからね。
国民は自民党がここまで驕慢だと、お仕置きをしないと変らないなと思い始めている。テレビで顔を見るたびに顔に驕慢ですと書いてある自民党議員の顔を観るのは辟易だ。それに、今回の安倍派議員の交代に関して、上川さんが官房長官の候補になっていると聞き呆れ返った。外交が非常に重要な局面で信頼関係を急ピッチで築くことに成功した彼女を、急場しのぎに使うなんてなんてビジョンがないのかと。幸いそうならなかったが、メディアもそういう価値観を示したものはなかった。情けない。実は、以前上川さんの勉強会にずっと参加していたので、彼女のことはよく存じ上げている。議員会館を訪ね、女性活躍の政策提言をしたこともある(自民党の女性活躍推進本部長だった頃)。法務大臣を5度だったかやり、そのほかも特命担当大臣副大臣を務めていたが、主要なポジションでなかったせいか国民にはあまり知られていない。とても有能で学習意欲の高い方だと思っている。これから自民党を支えてほしいと願っている。
 
実はずっと前から政治家を中心とする人たちが使うオーナーシップや矜持を感じない空虚な言い回しに、不快感を感じ続けてきた。多くの人たちも同様ではないだろうか。例えば、「しっかり」「先頭に立って」だって。そんなの当たり前じゃないか。それがリーダーでしょ。そんな言い回しは、リーダーシップのない人の背伸びでしかない。かえってマイナスだと思わないのかね。最低だ。そして今回の「火の玉になって」だ。どんどん情緒的な言い回しに退化し、ついに太平洋戦争の国営放送の言い回しになってきた。プロパガンダじゃないか、と感じちゃう。国民を舐めているよね。酷すぎる。そのような表現で国民を信じさせようとしているのだとしたら、あまりにも浅はかだ。そんなことでリーダーシップや決断力がある人だなどと誰も感じない。
 
日本の将来は大丈夫だろうか? 我々の代表は誰が最適なのか真剣に考えるときだ。でも、いないだよね。悲し過ぎる

椿か山茶花か。よく分からん。
与党と野党は一目瞭然。
花も政党も冬の様相。日本の冬も続くのかな(涙)。
 
 

柔軟な働き方がもたらすギフト

柔軟な働き方を決める要素はどのようなものだろうか。
例えば、勤務時間、勤務場所、使うITツール、考えるためのフレームワーク、フォーマットや承認ルールなどなどを思い浮かべるかもしれない。それらのものがとても柔軟な組織と、縛りがきつい組織がある。前者の場合は、自分なりに何が良いか調べたり、試したりしながら、個性や自分らしさを発揮できるものを決めていくだろう。即ち、組織としては多様性が活かされていくわけだ。
一方後者は、言い換えれば宛行扶持(あてがいぶち)だ。与えられたものを使うしかないわけだ。創造性も個性も多様性も発揮できない。もちろん、人によっては文句を言いながら・・・
 
さて、皆さんはどちらを好むだろうか? もちろん前者のほうがクリエイティブなカルチャーになりそうだ。しかし、もしかすると後者のほうが何も考えなくて済むから楽だと感じる人も多いかもしれない。
 
私は前者の組織を好むが、問題もある。それはリスクだ。例えば、いろいろなソフトを勝手に使えばサイバーセキュリティーのリスクは増すし、いろいろなフォーマットが飛び交えば、生産性は下がるだろう。
 
そこで考えどころは、ノンネゴシアブル(議論の余地なし)な統制はどこまで行うべきかだ。言い換えれば、これだけは守ってくれというボーダーをどう決めるかだ。私はここに組織やトップの個性が出ると感じる。やりすぎれば組織は硬直化する。何も統制しなければ、混乱するのは自明だ。
 
ちょっと待て、考えてみるとこの点を真剣に考えている人を聞いたことがない。しかし、組織の文化を決める重要なポイントだと思う。統制は積み重ねられていく。減ることは少ないものだ。歴史の永いレガシー組織は過統制な可能性が非常に高い。当然クリエイティビティーは失われてきたはずだ。どうだろう。かなり当たっているのではないだろうか。
 
自分の組織を見直してみよう。一度ゼロクリアして統制を緩めてみてはいかがだろうか。これは勇気の要る実験かもしれない。社員のモチベーションやクリエイティブティーに変化が出てくる可能性が高いと思う。
 
実は、これに関連した実験が2010年に労働経済学者のマイケル・ハウスマンによって行われている。結論だけ言うと、宛行扶持のツールを使っている人達と、自分好みのツールを探して使っている人達を比べると、後者の方が離職率も欠勤率も低く、生産性は高かったのだ。これはツールの使い方が問題なのではなく、彼らの方がマニュアル通りに仕事をせずに、自分なりに工夫をして問題を解決し、高い生産性を出し、それに満足感を感じていたことが分かったのだ。固定的な枠組みを飛び出すことができるしなやかさを発揮し、各位が最善策を探していく。その多様性を組織が許容するなら、それがより良い策として組織としてアップデートされていく。その柔軟性が組織に進化をもたらすと考えられるのだ。
 
さて、試してみたくなりましたか?

東京の夜も捨てもんじゃない。桜田門から麻布十番まで歩いた夜。
一緒に歩いてくれる人がいればもっとクリエイティブな夜になるんだけどな。

会議は2時間が限界?。さて、あなたはどうしますか?

COURRiER Japonは「米IT大手『スラック・テクノロジーズ』が世界中のデスクワーカー1万人以上を対象に調査したところ、大半の回答者にとって会議は2時間までが限界だという結果が出た」と報じている。これによって集中できる時間が不足し生産性が落ちる問題が起きているという。

私がコンタクトしている企業エクゼクティブのほぼ全員が異口同音に「会議が多過ぎる」と言っている。私が企業で働いていた時も同様の問題を抱えていた。特に私は複数のユニットや組織を兼務していたために、それらの組織の幹部が集まる会議や承認や合意形成のために会議が、他の方たちの何倍も召集される対象になっていたことも大きな原因だった。

会議が多すぎる弊害は、言うまでもなく顧客や市場に向き合う時間が確保できないこと。更に、事業を創っている現場にコンタクトする(ハンズオン)時間が確保できないことなどにある。これがないと、イノベーションは起きないし変革の糸口を得ることもままならない。即ち、成長の源を確保できないのだ。

もう一つの弊害は、集中力を維持することが困難になることだろう。やはり長時間の会議の間ずっと集中力を維持することは難しいし、会議の連続ならば更にそうなる。いくら集中力に自信があったとしても、集中の品質は維持できない。重要な意思決定は必ず午前中に行うべきだという主張もそのためだ。

更に、一人で考えたり、少数の部下と壁打ちの様にフランクに議論をする時間が確保できないのも、致命的な弊害だ。

 

さて、そのように皆さんも同様に会議は減らすべきだと思っているなら、なぜできないのだろうか。減らせばよいではないか。

1つの重要なポイントは権限委譲が進んでいないという事実だろう。幹部にはいろいろ言い訳が存在する。典型的なのは「部下に任せられない」だ。どう思いますか? これって、部下を育ててこなかったということを示していると言ってもいい。即ち、自分にマネジメント能力が欠如しているかを自白しているのと同じだ。更に言えば、やらせてみなければ実力はつかないという事実だ。失敗しするから成長するわけで、小さな失敗を経験させて、そのプロセスでコーチンすることによって自分でなぜ失敗したのかに気付き、反省し、成長するプロセスを経るように上司が行動しなければならないのだ。

もう1つのポイントは、男性性の強さだ。「あるべき論」を振りかざすことが上司の上司たるゆえんだと思っている。だから、会議でマウンティングすることで私は上司だと行動で示すことが使命だと勘違いしている人が多いということだ。このような男性性の強さは、組織から自律を剥奪する。常に私が君臨し私が決めるという姿勢で存在意義を確保しようとしているわけで、部下は何も逆らわずじっとしていた方が幸せだ、余計なことを言えば皆の前でマウントを取られバカ者扱いされ、プライドを傷つけられるばかりか、周りの人たちもやる気を失い退職への道を進む。こんな会議は全部止めた方がいい。

皆さんはどう対処しますか? 「スラックは四半期に2度、丸一週間すべての内部会議をキャンセルし、また金曜日の内部会議は通年で廃止している。金曜日の会議を制限するのは、他の企業もやっている策だ」 これはある会社のサンプルでしかない。しかし、言えることは、トップの決断ひとつで大胆な策を挑戦することから始めてほしいということだ。事業の種類によって方策はまちまちだろう。ただ、言えることは一日中会議を入れるなどという愚かなことは絶対に行わないと決めることだ。会議はすべて午前中に行うとか、特定の曜日は会議ゼロにするとか、承認レベルを大胆に下げて、部長や課長クラスの権限と責任を大きくし、何段階もの承認を必要としないように再設計することも重要だ。また、報告のための会議はすべてメールやTeamsのチーム内のコミュニケーションのような共有プラットフォーム内で済ますことだ。その代わり必要なものは必ず読むことを義務付けるなどの新しい規律を全員がコミットしなければなるまい。

 

皆さんは、自分が処理しなけらばならないタスク群のマネジメントをどのように行っているだろうか。前にも書いたが、仕事には「作業」と「創造」の2種類しかない。そして「作業」の多くは付加価値が少なく、かつどんどん自動化が進んでいる。少ない工数で行うべきだし、行えるようになっていく。即ち、そこを圧縮して「創造」即ち付加価値をいかに付加していくかに時間と能力と情熱を割くべきなのだ。しかし、多くの人は「作業」を熱心に行い多忙を極めている。なんなら「忙しい私って素敵でしょ」なんて思っていたりする。これはかなり重症で、付加価値を称賛するのではなく、汗と涙と根性を称賛する企業文化が染みついている証拠だ。それは上司がちゃんと部下の仕事をマネージしていない証拠、もしくは上司に付加価値とな何なのかのセンスが欠如している証拠だ。要は、何にどれだけの工数をかけるのかを見える化する努力をするかどうかがポイントだと思う。仮にまだジュニアな社員を部下に持っているならば、毎週1on1の機会を作り、見える化させ優先順位とタイムラインがどうあるべきなのかコーチングするといいと思う。また、その際に以前書いたフィードフォワードを行うといい。それを繰り返せば、部下は確実に成長していくだろう。上司もそう行動することによって、自らの行動を正すことにもつながるかもしれない。上司はそうやって部下を育てればいい。その工数を惜しむと、自分で何も決められない、即ちいずれ権限移譲先になってもらわなければならない対象に成長しないのだ。

 

古い価値観や習慣は一度捨ててみよう。並行して何をどう改革していけば良いのか考えトライしてみよう。弱点が見つかれば変えればいいし、もっと大胆にできそうだと分かれば更に進めればいい。意思決定の質や、生産性や、創造が進んだかどうかや、ストレスや、コミュニケーションの量などなどがどう変わったかは、捕捉するよう努力してみるといい。そのような変革へのチャレンジがなければ、組織カルチャーは陳腐化し、市場から遊離し、人材は定着せず、しまいに業績は落ちていく。たかが会議と舐めない方がいい。それが組織を蝕んでいく。誤解しないでほしい。コミュニケーション量は上げなければならない。しかし、その確保を会議に頼ってはならないのだ。

脳が活動するには糖質の摂取が必要不可欠。
同時に、糖質を摂ると血糖値が急激に上がり、それを身体が下げようとする。
下がると今度は眠くなるのだ。日中の摂り過ぎは禁物なのだ。特に会議の前にはね。