人生は「ガチャ」で決まるのか

「World Giving Index」(イギリスの慈善団体の調査)によると、「寄付や人助けにどれくらい積極的か」というランキングで、日本は対象114ヵ国中最下位だった。

駒沢大学准教授の井上さんは「日本は『貧しい人を助けないでいい』という人が多い一方で、『お金持ちを許せない』という人も多い。どちらも気に食わないんです。どうも、まともに働いて普通に生活している人が一番偉くて、貧しい人に対しては『努力が足りない』と見ているし、お金持ちは『どうせ悪いことをしている』と見ているようです」と仰る。

例えばそのような偏見はアメリカの方が強そうだと感じるが、「(日本は)自分と立場の違う人への偏見が強い。それはアメリカに比べても激しくて、例えば、アメリカでは伝統的にお金持ちは憧れの存在で、事業に成功して富を築いた人は尊敬されますが、日本はそうではありません。ホームレスや生活保護を受けている人たちへの風当たりも、日本は非常に強いです」と分析している。

 

成功するかどうかは運で決まるのだろうか。サンデル教授の新作「実力も運のうち 能力主義は正義か?」はまだ読んでいませんが、中に「『大学教育を受けられるか受けられないか』がクリティカルポイントで、それには能力というより親次第という面がある。『親のおかげで大学に行った人が、それなりに頑張ってお金持ちになったからと言って、偉そうなことを言うのはおかしい」という論点がある。つまり子供は親を選べず、どのような環境で育つかで人生の多くは決まってしまうのだろうか、という論点ですね。本人の努力で決まるんだろうと思っても、お金がなければ進学できないし、その前に塾にも行けないし、参考書も買えない。家計を助けるために朝も夕方も働き、クラブ活動もできないし、勉強する時間もないかもしれない。勉強なんて意味はない、そんな時間があったら働けとずっと言われて育つ人もいる。自分の力ではどうしようもないことはたくさんある。特に子供であればいかんともしがたい。つまり、人生は運しだいということになる。井上氏は「『貧しい家庭から這い上がって成功した』という人も、もちろん本人が努力した結果とは思いますが、『努力する能力をどこかで身につけることに成功した』という意味で、究極的にはやはり運が良かったのではないかとも思うんです」

即ち「人生はすべてガチャで決まる」たまたまクラス替えで出会ったいじめっ子に、たまたまいじめのきっかけとなるシャツのほころびを見られたことから、人生が変わったりもする。昇格選抜の前に異動命令が出て、行った先の上司は子飼いを優先し、チャンスを失い、我慢して努力をして成果を出していよいよという時にまた異動、などという話もある。その逆で運の良い人もいる。出会いや、タイミング。それは本人の努力ではない。しかし、それを逃さなかったセンスや勇気がその影にはきっとあったのだろう。一歩踏み出せるかどうか、心に飛び込めるかどうか、チャンスを得られない人と得られる人の違いは大きい。しかし、その素養もどこかで運よく得られたものなのかもしれない。人生は「ガチャ」なのだろうか。

 

ポイントとして「出会い」を大切にすることを上げたい。何度も私のブログに登場する出口さんの「本を読め、人に会え、旅に出ろ」という言葉に、私は強く共感している。スイッチを入れるきっかけは、バッターボックスに立つ数でも決まるはずだ。鈍感な人でも、打率の低い人でもヒーローになり得るように、覚醒することができるはずだ。

 

失敗している人を指さし「自己責任」だと叩く人がとても多い。ネットではそんな書き込みで溢れている。あなたは自分の能力によって成功したのですか? 運がよかっただけでしょ。それなのに失敗した人を叩き、ざまあみろ、自分が悪いんだと蔑む。最低ですね。自分を高みに置くことで優越感を得る。人を蔑むことでマウントを取って留飲を下げている。もちろん自業自得という価値観は大切だ。努力した人が報われる社会にしたいものだと思う。しかし、上司の前では頑張っている振りをして、いなくなればサボるひともたくさんいる。私が学生時代アルバイトをしていて、同僚は毎日遅刻をしてきた。しかし、怒られるわけでも注意されるわけでもなく、どういうこと?と不条理を感じていたところ、給料日に彼はその分バイト料を減らされていたことを知り、お天道様はちゃんと見ていると心の中だけで留飲を下げた経験がある。

 

貧しい人を国が支援すべきかどうか。日本は主要国の中で最も「そんなことをすべきではない「貧しいのは自己責任だ」という比率が高く40%にもなるのだそうだ。もちろん「自己責任」という価値観は大切だと思う。他人に迷惑をかけたくないから自分で何とかするとか、努力によって成し遂げられることはあると思ったり、自分を律したり。しかし、上記のように努力ではどうしようもないことも多いことも間違いはないのに、そう思ってしまう日本人。なんだか嫌な国民性ですね。

 

「自己責任」を過度に振りかざす人は、もしかすると、自分が羨むような成功を収めている人に対しては、羨(うらや)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み、せめて皮肉をいうことで留飲を下げているという弱者の情けない行動と、自分より失敗をしている人を蔑みマウントを取る弱者の情けない行動、の両面を持っているのではないだろうか。何れも、自分と向き合っていない、即ち「自分は何者なのか」を考えたことがない証左なのではないだろうか。深く向き合えば、決してそのような態度で入れれないと思うのだ。

 

人生って、何かに抗うことだと感じる時がある。流れに身を任せるのではなく、流れを変える行動をとること。それには勇気がいるし、リスクはあるし、疲れるし、面倒だし、共感されないかもしれない。でも、「正しい道は何なのか」「自分の使命は何なのか」を考え続ける人生が人を成長させるのではないだろうか。それは妬むことや蔑むことは真逆の価値観だと感じる。すべて「自分は何者なのか」が原点になるはずだ。

夏の名残り。
9月の公園は寂しい。

 

 

言葉の影響力

少々前の話です。私がCMOだった頃、エモい」という言葉が巷で言われ始めました。恐らく、最初はマーケティングを進める上での価値観として「Emotional」という意味で使われ始めたのではないかと、私は思っています(事実は闇の中)。

確かに「Emotional」であることはとても大きな価値です。B2BであろうがB2Cであろうが、消費者、意思決定者の心情に刺さるメッセージが求められるのです。そこにはロジックや経験では設計できない情感があるはずですよね。

それが、いつの間にか「エモい」として闊歩するようになったのです。使い方も今私が言ったことをはるかに超越して、私には説明できない世界に昇華されていますね(笑)

言葉ってすごく影響力がある。言葉の流行で本質的な意味を思い出させてくれる社会的な影響力を感じることもあります。

必ずしも新しい言葉にビビッドではない私が最近キーワードだねと感じた、古くて新しい言葉が「ポリコレ」です。多くの人が既に使っているのかもしれません。私は知らなかった。しかし、社会価値として非常に重要な言葉であり、その言葉が拡がることにより、社会がよくなる可能性を感じる言葉だと思いました。「パリコレ」じゃないですよ。古いね(笑)

 

「ポリコレ」とは、ポリティカル・コレクトネス」のことで、性別や人種、職業、信条などなどにおいて偏見や差別を生まないような表現を用いることです。政治的な中立性と言ってもいいかもしれませんが、よく分かりませんよね。実は「ポリコレ」という言葉を知っているかどうかは別として、その流れは皆さんよく分かっているはずです。

例えば、「スチュワーデス」という言葉は「フライトアテンダント」、「看護婦」が「看護師」、「伝染病」が「感染症」、「痴呆症」が「認知症」、「インディアン」を「ネイティブアメリカン」などは皆「ポリコレ」により変わったものなのです。

私の親の世代は、疑問も持たずに偏見的な言葉を使っていたように思います。このような表現の適正化は恐らくほんの3、40年の変化ではないでしょうか。

今では、当たり前の価値観として正しく言葉を選ぶ行動が自然になってきました。いえいえ、もしかしたら足元では「おっと・・・」と感じることがあるのかもしれません。

一種「エモい」と通じる軽いノリの「ポリコレ」。その重さは全然違いますよね。でも、いいんです。それを若者たちが正しく使ってくれれば、社会はもっと良くなるはずです。

「それエモいね」というように「それ、『ポリコレ』じゃネ」なんて若者が話す社会は嫌いじゃない。

これちょっとエモいでしょ(笑)
東京都現代美術館MOT)

 

GRITと再考

今から25年くらい前のことです。スタッフの部長に異動し、ITサービス事業を担う事業部を対象とした「上級セールスマンコース」のコンテンツを作っていました。ポイントは「スキル」。スキルというと「業務ノウハウ」とか「テクニカルスキル」を思い出すでしょうが、そればかりに目を向けていると見逃してしまう重要なポイントに気付いて欲しいという狙いの教育です。例えば、いかにテクニカルスキルに優れた天才でも、問題が起きている現場で第三者になってしまい、事実に向き合わなければ誰からも信頼されません。そのように「スキル」を支えるものがあるはずです。それに気付き、その本質に向き合うことを求めるのが主旨です。

 

それを我々は「ベーススキル」と呼んでいました。本当は「スキル」ではなく、マインドセットとか行動原則という類です。

 

例えば、当事者意識、執着心、責任感、チャレンジ精神、突き詰める力、好奇心、先見性・・・などというものです。ビジネスマンとして成果が出ない時、その理由を分析し同じ過ちを犯さないようにする取り組みは非常に重要ですが、多くの場合はその結論は表面的で何の学びにもなりません。例えば、なぜコンペで敗退したか? 分析した結果が「価格が高かったから」「提案書の技術点が足りなかったから」・・・という具合ではただの現象でしかなく、何の反省材料にもなりませんね。なぜもう一歩踏み込まなかったのか? なぜもっと情報を収集しなかったのか? リソース不足ならなぜ上層部に直談判して要員を借りなかったのか? 等々多様な反省があるはずですね。なぜそのような妥協や甘さや躊躇や危機感の欠如をしてしまったのか? その裏に何があったのかが「本質」でしょう。その「本質」に向き合わなければ学びと成長はないと強く思います。例えば、「誰かがやってくれるだろうと、当事者意識が足りなかった」と反省すべきですね。

 

そうです。実は問題の原因の多くが「ベーススキル」の欠如なのです。私はクライアントに、部下との1on1でその本質に向き合う(ベーススキルの欠如に向き合う)コーチンをするよう促しています。それが人材育成に最も重要で、実は欠落している要素だと思うからです。

 

さて、その10年以上後によく言われ始めた言葉があります。皆さんもよくご存じの「GRIT」です。「やり抜く力」などとも言われます。Guts(度胸)。Resilience(復元力)。Initiative(自発性)。Tenacity(執着)。の4つですね。  

 

さて、皆さんもお気づきの通り、「ベーススキル」と「GRIT」は酷似しています。私はそれらがビジネスパーソンにとって最も重要なマインドセットだと思っています。

 

ところが、最近の研究でGRITの問題を指摘した人がいます。アダム・グラントです。彼は最新の著書「THINK AGAIN」で、考え直すことの重要性を研究によって解き明かしています。その中でこのように書いています。「回避可能である失敗を回避できないのは、立場固定バイアス*によるところが大きい。だが、もう一つ大きな原因がある。それは皮肉にも、私たちが成功の原動力と崇めている資質「根性(GRIT)」だ。根性は情熱と忍耐の掛け合わせであり、人を長期的な目標に向かって突き動かすエンジンの一部であることは研究でも明らかになっている。ところが、再考という観点から見るとマイナスな資質になりかねない」

 

ビジネスや人生で成功や幸せを勝ち取るために重要なことの一つは柔軟性です。バイアスに囚われ、間違いを認め方向転換できない人は多い。変化の激しい現代、情報にビビッドでいるとともに、慧敏に考えを改め(再考)、行動を変えることが求められています。

 

それなのに、一度決めたことから離れられない(船は錨を下ろすとそこから離れられないことに似ていることから、「アンカリング」とも言います)ことはリスク以外の何物でもありません。それにステークホルダーから、「もう状況は変わったのに・・・」「意地っ張り」とか「強情な奴」だと思われる可能性すらあります。

 

GRITは素晴らしいマインドセットです。しかし、時としてその頸木から逃れられなくなる。必要なことは、客観性、オープンな心、素直な反省、変化のセンシング力、コミュニケーション量などではないだろうか。

 

*立場固定バイアスとは:「目標に打ち込んでいる時は考え直さないことが多い。失敗していると分かっていても戦略転換せず、固執し大金を投じ続ける起業家などはたくさんいる。そのパターンを『立場固定』という。心理的バイアスの一つ。」

退職と共に新しいサイトに場を移し、再開したブログ。
先日で10万アクセスを越えた。数えると164通アップしていた。
正に「ちりつも」。
社内ブログを始めてから20年以上経つと思う。もはや習慣かもしれない(笑)
よく飽きないねと思うかな? 僕自身もそう思う(笑)



 

直球と変化球 王道を行きたい

以前に勤めていた会社でのエピソード。「直球勝負」の昔話です。
昔ある大手シンクタンクと協業していました。その時が初めてのお付き合いです。彼らのパッケージソフトを担ぎ我々が営業していました。営業とプロジェクトマネジメントを我々が担い、開発をその会社が分担するというチーミングです。彼らのノウハウとパッケージの機能が評価され、受注をしたものの、プロジェクトはうまく行きません、このまま進めると大赤字間違いなしという状況で、話は先方の上層部に上がり、私は彼らの御前会議に呼ばれました。40歳少し前のころでしょうか。
話はすれ違い平行線。彼ら幹部はITサービス事業の何たるかを、リスクも含めて分かっていませんでした。こうなったのは誰の責任なのか。すべて当社に押しつけようとしました。私は一貫して事業の性質と上流での顧客との仕様調整、その上でのプロジェクトの見通しとそのコミットメントの重要性を説き、突っぱね続けました。時正に夏休み。限られた休みの中、家族四人で小さなコテージに泊まっていた夜、上司からの電話。先方の専務が怒っていると。「何故清水は休んているのか」とお怒りだと。ささやかな一泊の夏休みはその瞬間なくなり、すぐ荷物をまとめて泊まらずとんぼ返り。次の日にはその会社を訪問していました。とはいえ、状況は打開するわけでもなく、平行線のまま開発は続きます。
さて、どうなったでしょうか?
最終的には、同社の副社長が登場し、私と面談。彼は初めて会った私のことを「清水さんは剛速球投手ですね」と笑い、折れてくれました。赤字の多くは彼らが負担し、プロジェクトは完遂しました。実は副社長は以前親会社にいたときに当社と付き合いがあり、信頼関係があったことを後日知りました。その方が登場しなかったらもっと尾を引いていたでしょう。僕の人生にはこのように運命の扉が突然開いたことが、何度もあります。
 
プロジェクトは完遂したものの、後日談があります。同社はそのチームを解散し、その事業から撤退したのです。
この事業を続ける限りこの手のリスクから逃れられなく、それを回避する実力も、そのための投資原資もないと判断したのでしょう。要はビジネスとして成り立たないと判断したのだと思います。
シンクタンクの多くは親会社が金融系です。親会社向けの仕事をしているぶんには、リスクなどほぼないのですが、競争社会で利益を出すことの難しさを、親会社からきた幹部には理解できなかったのでしょう。実はそのチームはシンクタンク部門と合体したIT子会社のチームだったのです。そのチームの意見など聞き入れられなかったようです。とても残念だったことを覚えています。
 
元々私はとても不器用な人間です。だから直球を投げるしか能がない。その本質は今でも変わっていないと感じますが、流石に少しは学習し、戦略的な変化球の投げ方も学びました。直球しか投げられない人は、大けがをする可能性があります。相手が折れない限り3アウトにならないからです。しかし、絶対に間違っていないという確信があれば、その剛速球の前に相手は諦めるしかないのかもしれません。その自信が過信だった場合は大けがになりますね。私の若気の至りは幸い成功しただけです。実はベテランになっても速球は投げるのですがw・・・  そのような経験が私の自己効力の源泉になっているのは間違いないでしょう。
 
変化球の話もしましょう。例えば、提案シナリオは変化球を多投したものです。他社の得意なフィールドで、速球を投げても打ち取ることができないと判断したら、めちゃくちゃ癖玉を投げます。ダメ元で、見たこともないようなユニークな提案をして選定メンバーを引き付けるのです。しかし、そんなことで勝てることはそうはありません。しかし、実は最終選定には必ずといっていいほど残ります。多くの人にとって変わり種が魅力に見えるのです。もしかしたら、その提案の方がいいかもしれないと迷うわけですね。もちろんそれを狙って提案しているわけですから、作戦通りです。
 
私は本来王道を行きたいし、それが望ましいと思っています。しかし、それが通用しないのだったら、ユニークな手を考える。それも、相手の想定を超えるような。
見積もりは求められていないのに、無視できない安価な見積書を提案書の中に入れてしまうとか、これからの時代はこう進めるべきだと、RFPて求められていない全く別の提案をしてしまうとか、様々です。失うものはないダメ元の状況であれば、創造力を絞り出せは、道は開かれるかもしれません。
仕事はそのように行動すれば楽しい状況になり、可能性が拡がります。正に、ゲーム感覚です。「仕事をゲーム感覚で行うなんて舐めるんじゃない」などと昔の先輩は言うかもしれません。そんなことはないですよ。仕事はゲームです。どういう手を打てば、相手はどう出てくるか? それを洞察して判断する。その繰り返しは、ゲームそのものです。
 
あるプロ雀士が書いたショートエッセーの話を前にしましたね。負ける理由のほとんどすべては「自滅」だと。ビジネスもそうです。私も実感としてそう思います。そうならないように、洞察して何手も先の状況を想像して手を打つのです。劣勢をひっくり返すのには奇策しかありませんし、勝てる試合であれば、ミスを絶対にしないように詰めていくのが鉄則でしょう。ビジネスと同じなのです。それを楽しみ、チャレンジできる人が大成し、そうでない人が目の前のチャンスを逃します。
機を見るに敏」という言葉がありますよね。「好都合な状況や時期を素早くつかんで的確に行動する」ことですが、不都合な状況でも打ち手はあるものなのです。「背水の陣」的馬鹿力もあるでしょうが、相手の油断につけこむ奇策もあるのです。
 
勝っても負けても楽しい。プロジェクトが成功しても失敗しても醍醐味はあったはずです。それが仕事だと思います。すべてのプロセスに学びはあるはずです。
 
それを許容する、もしくは楽しむのが上司だと思うのです。もちろん責任を取って。
「そうか、ダメだったか。ダメもとの奇策はそう簡単に通用しない。次は先手を取って王道で行こう!」と、部下を鼓舞するのが上司ですね。

夕暮れはやさしい
 

安定の不安定 考えたくない将来 でも向き合わなければならない

ロシアによる一方的なウクライナ侵攻の長期化は、欧米各国の協調に影響を与えかねない状況になってきた。専制政治の暴挙に対する民主主義の対抗という価値観は共有しているものの、足並みが徐々にばらついてきたように感じる。NATOEUの求心力は鉄壁だろうか。そんな心配が頭をよぎる。同時に、インフレ、景気悪化、コロナ禍ストレスなどにより、各国の現政権に対する不満、スキャンダル、右傾化などがじわじわと進んでいる。

英、仏、米などの政権はとても不安定になってきた。(ドイツは昨年政権が変わった)客観的に見ると、統一教会スキャンダルなどがあろうが、日本が政治的に一番安定しているのかもしれない。自民党に代われる政党が全くないことが一番の理由だが・・・

世界はどうなっていくのだろうか。ペロシ米下院議長の訪台に対する中国の過激な反応を皆さんはどう感じるだろうか。任期間近の老人の卒業旅行ともいえる訪台。ロシアも中国も民心を束ねることに必死だ。綻びを繕う毎日。プロパガンダにメディアの統制。言論の自由は即体制の崩壊につながる。自由にさせないことがサステナビリティ―の確保なのだ。ペロシ氏の訪台は、実は習主席にとっては反米をたき付ける好材料だったのではないか。緊急演習も日米をターゲットにした当然の対抗手段。悪いのは日米なのだというすりこみ。残念ながらそれは成功しているように感じる。

米政権も、本音は訪台を止めてほしかった。こうなることは見えていた。米中の軍のパイプは閉ざされ、中国を益々孤立させることになってしまった。

関係は改善などできない。そうっとしておくことが最善の選択のはずなのに、パイプすら失いかねない。現状維持すらできない行動は、愚かに感じる。人権問題など放っておけないという価値観はよく分かる。しかし、力尽くで相手をねじ伏せることはできますか? できないことに挑戦せざるを得ない道を進んでいるだけだと感じざるを得ない。

東アジアも東ヨーロッパも地政学的リスクは増すばかりだ。

どちらかが折れるという解はない以上、対話で互いの立場を理解し、戦略的な互恵関係、言い換えれば共存共栄しか選択はないと感じる。

民主主義が世界に浸透するなど夢だと考えるしかないのではないか。

 

ナシーム・ニコラス・タレブ氏は「COURRIER JAPAN」でこう言う。「ウクライナ人が望んだのは、『良性』の国際秩序の一部になることです。『良性』とは、自己修正できるので、ちゃんと機能するという意味です。」そう、民主主義とは自分で修正できる。そのプロセスは凄く面倒だが、できるシステムなのだ。それに対してロシアや中国の専制政治体制にはそれがない。

「西側のモデルには、『反脆弱性と呼ぶ特質が備わっています。『反脆弱性』とはストレスやショックや激しい変動に見舞われると、かえって力が強くなるシステムの特質のことです。ロシアにはこの『反脆弱性』がないのです。」

国民が学んで、白血球がウィルスを滅亡させるような機能があるのではないか。専制国家は、内にこもって自ら厚い壁を作りウィルスという現実に向き合わない。脆弱なまま孤立し反骨精神だけ育んでいく。そんな感じなのではないだろうか。

 

考えれば考えるほど、混沌としてくる。僕たちが住む東アジアの平和は明らかに揺らいでいる。現状維持というある意味後ろ向きな解決が最善の解である現実を前にして、それすら夢になりつつある。

とはいえ、防衛費を大胆に増額するのか等の、現実解に国民は向き合わないければならない。いざとなったら誰も助けてくれないかもしれないのだ。一人一人が万が一を想像すべきだ。中国の戦闘機が自衛隊の戦闘機を攻撃したら? 演習のミサイルが沖縄県の島に着弾したら? 中国が台湾上陸を図ったら? 米国の航空母艦が中国に攻撃されたら? 中国の潜水艦が東京湾に入ってきたら? どさくさ紛れに北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射したら?・・・ 全部あり得ますよ。日本はどうするべきなのか? 考えたことはありますか? 中国は絶対に自制すると言い切れる人はいないと思う。それはもはや能天気な夢ではないか。政府はもしそうなったらどうするかを考えれば考えるほど・・・  

さあ、どう向き合いますか? 自分は「関係ない」と言うのですか?

こんな日本を将来に残したい

 

仕事のお供 と 脅しとはったり

コリーヌ・ベイリー・レイとエマ・ジェーンが作り出す幸せ

 

相変わらず、自宅での仕事は音楽を聴きながらリラックスして行ってます。最近のお気に入りを紹介しますね。良かったら聴いてみてください。もちろんサブスクで聴くのが手っ取り早いですが、会員でなければYoutubeでも聴けますよ。

 

コリーヌ・ベイリー・レイ(Corinne Bailey Rae)

"Put Your Records On" "Like A Star" "The Scientist" などが特にいいよ。たぶんどこかで聴いたことがあると思う。どこか悲しくて、でも這い上がろうとする意思を感じるトーンだ。良かったらググってみてください。動画込みで聴けますよ。

 

エマ・ジェーン(Emma Jayne)

"Morning""Feel Like That"などがいいですよ。これもYoutubeで聴けますよ。彼女は日本ではほぼ無名。バックのサウンドも最高。生で聴いたらいいだろうな。

 

 

■脅しとはったり。結局は国益

 

少し前の話。バイデン大統領がサウジのムハンマド皇太子を訪問した。カショギー氏殺害はあなたの責任だと責めたという話やら、石油増産をお願いしたという話やら・・・両方円満に話したなんてありえないし、皇太子は相当頭にきて、報復を考えているなどという報道もあったりする。サウジはロシアとも近く、ロシアの石油を今でも相当買っている。必要ないのに買っているわけ。たぶん安く買っているのだろうが、それを増産と称して欧米に売る可能性だってある。圧力をかけたバイデンはロシアに塩を送っていることになるかもしれない。いずれも事実は分からない。欧米のメディアだって怪しい。イランはドローンをロシアに提供し、石油を大量に輸入しガソリンなどに精製し他国に流している。

 

どう思います? 皆自国のことしか考えていない。損か得か。世界平和より国益国益を否定しているわけではありません)。それが現実の一面。今世間を騒がしている自民党と旧統一教会との関係にも通底したものを感じる。票の為だったら誰とでも組むのかという話。勝ってなんぼの選挙。そのためには汚れてもいい。勝てばなんとかなる。そんな価値観が世界のトップの中にも明らかに存在すると思う。

特に今年は世界の混沌が深まった。常に悶々としている。

ルートヴィヒ美術館展に行ったときに、
国立新美術館ミュージアムショップで衝動買いしたピカソの絵が、やっと届いた。
やっぱり今のテーマは平和でしょ。
仕事場がより落ち着いた感じ。マチスは逆サイドにお引っ越し。
もちろん全部リプリント。

 

「部下のことはよく分かっている」という誤解

■データがバイアスを作り出す
こんな話があります。どう思いますか?
A 富裕層が率先してCO2排出量を減らすべきだという批判がある。それは正しい。事実、富裕層トップ10%の排出量を平均的なヨーロッパ人のレベルに減らすだけで、1/3程度の排出量を減らせる。
B 2040年までに、EVは現在の200万台から、2億8000万台までに伸びる(by IEA)というが、それで削減される世界のCO2排出量は、わずか1%と推計される。

内容は、素直に「あらびっくり!」かもしれませんね。私もそう感じました。人間の認知力には限界があります。すべてのデータを前にして判断することは現実的にできないし、結局は限られた情報のみで何らかの感想を抱いたり、判断したりする。やむを得ないことではありますが、もちろん多くのバイアスを作り出し、フェイクに衣替えしたりもする。それがあたかも真実だと思う人もたくさん現れる。それはとても不幸なことです。

上記A、Bも恐らく正しい推測でしょう。しかし本当は、私はそれが正しいかどうかは分かりません。研究者の研究成果なのか、公的機関のレポートなのかも知りません。残念ながら世間ではそういう誤解や事実誤認がたくさん存在します。権威ある新聞ですら誤報をしますし、誘導もします。膨大なデータを処理し、意味のあるもの(自分の主張にとって都合の良い)に加工することが得意なメディアもたくさんあるでしょう。

ABとも、それを読んで何を感じどう活かすのかは人によって全く違うでしょう。恐らくほとんどの人にとっては「関係ない話」として脳のごみ箱に入れられることでしょうが・・・

たとえばA、たった10%の富裕層の無駄遣いを批判することに有効な記事であることは、間違いないことでしょう。しかし、しかし、それが世界のカーボンニュートラルにどれくらいインパクトがあるのかは分かりません。1/3って何なのかは分かりませんし、その総量が世界の中のどれくらいなのかは全く分からないからです。即ち、この記事は富裕層の贅沢を批判するためにしか機能していないと言っても、過言ではありません。それに何の意味があるのでしょうか。

Bは、逆にEV化のインパクトが想像しているよりはるかに小さな印象を持たせます。私などは、EV化がカーボンニュートラルの決め手になるくらいのイメージを抱いていました。その根拠は? なんとなくです。そうデータを解釈して判断しているわけではありません。1%でしかないと理解し、EVしか製造してはならないという、世界の政治的シフトを批判しますか? それよりもっとやるべきことがあるのではないかと、データを探しますか? メディアって責任が重たいですよね。要は、何を伝えたいのか? 記者の清廉な思いとは何なのか? 何を主張すべきなのか? 正しい情報とは何なのか? 残念ながらその答えを満たしてくれるメディアはごく一部です。大半は、あらゆる情報をゴシップとして扱います。「え~っ、そうだったの!」と思わせるためだけに使います。要は、「読ませてなんぼ」くらいにしか考えていない。

メディアの低下は大きな問題ですね。読者、視聴者サイドの大人の(年齢ではなく成熟度)価値観が必要不可欠です。

人はそれぞれ多様な信念を持っています。その信念を強固にするために、また、自分の正当性を明らかにするために情報を使います。例えば、益々かつ永遠に開いていく格差社会を常々批判している人にとっては、Aはそれを助長する政権批判に使うでしょう。自動車はエンジンに限ると思っているエンスージアストにとってみれば、BはEVシフトがどれだけ愚策で、それによって職を失う自動車産業の労働者問題の方がずっと大きな問題だ、という主張に転嫁されます。

このような人間の性は避けようがないのでしょう。誰でもそういうところはある。しかし、できるだけ「科学者の目」メタ認知するよう努力すべきだと思います。この辺の話はおいおいまたしたいと思います。

ビジネス上の罠はあちこちにあります。客観性を磨きましょうね。

 

■「部下のことはよく分かっている」という誤解

半年に一回の1on1(昔は業績レビューと称して面談をしていた)の機会。私の昔の上司は皆(当然上司は何人も変わった)、「いつも話してるからいいよね」とその機会を棒に振っていた(面談してくれなかった)。この裏には何があったと思いますか? 「部下のことはよく分かっている」という誤解ですね。これは陥りやすい落とし穴ともいえる。日々のコミュニケーションはもちろんたくさんあります。時々飲みにも行っていました。これが誤解を生む。僕の悩みや感情や願いは分かってはいなかった。そう、ほぼ話していなかったのです。もちろん、僕にも問題はある。「話しても始まらない」だ。その人に分かってもらったからといって、助けにはならない、という失礼千万な決めつけ。自分のことは自分で考え、解決してきた。今となってはそれが決して良いことだったとは思っていない。もっと多くの人にアドバイスを求めればよかった。もしかすれば、違った人生を歩んでいたかもしれない。いやいや、今の人生を悔やんでいるわけではありませんよ。充実した人生だったし、ウェルビーイングな人生だったと言える。しかし、クリア度は変わっていたかもしれない。

上司は誤解する生き物です。都合の良いように解釈します。もちろん、この特徴は上司に限ることではなく、すべての人間に当てはまるものですが、こと上司となれば皆さんにとっては、シリアスですよね。

前にもハイコンテクストの問題は書きました。上司は部下との関係を「ツーカーだ」と絶対に思わないでほしい。そう思うから溝が生まれる。「分かっちゃいない」のです。だからローコンテクストを前提に、コミュニケーションの深化の努力を続けるべきです。決して部下に頼ってはいけませんよ。自分から能動的に行動するのです。

前提は「ローコンテクスト」 - Heaven's Kitchen / 清水のブログ by Seed Master Consulting (hatenablog.com)

濃厚接触者自宅待機期間開けのゴルフ
やっぱり家の籠るのは滅入る
夏は暑かろうか、日焼けしようが、太陽の下にいないとね
年々下手になっていくゴルフ 楽しむこと優先(^^♪