傲慢の先 闇の先

他人のことはよく気付くのに、自分のことは気付かない。これは人間の本性ではあるまいか。相手のミスはよく気付くのに、自分のミスは気付かない。相手の傲慢さには腹が立つけれど、自分もそうだとは全く思っていない。相手の偏見には苦虫を噛み潰すが、自分も偏見だとは思ってもいない。失敗したのは部下のせい、成功した時は自分のお陰というのに少し似てる。悪いのは相手で私じゃない。このように偏った見方をする人は実に多い。

その逆に、すべて自分のせいだと思い悩む人もいる。真面目過ぎると言えばそれまで。しかし、本人はいたって真剣。真剣を通り越して、悩む様子は深刻だ。私はいつもこう思う。「真剣にはやるさ。でも決して深刻になる必要はない。」と。

話を戻そう。常に相手のせいにしてしまう人に何を伝えればいいのだろうか。何を気付かせればいいのだろうか。私はよく「鏡を持って自分と向かい合ってほしい」と話す。でも、恐らくそう言っても分かってくれないだろう。逃げている人は、永遠に事実に向かい合えないのだろうか。常に都合の良いフィルターを通して見ている。顧客の信頼を失い、部下から総スカンを食い、上司の叱責に背を向け、友人や家族から見放されても気付かないのだろうか。すべてを失ったときにはじめて気付くのだろうか。

自分は実にちっぽけな存在だ。どんなに経験を積もうが、齢を重ねようが、社会的地位を獲得しようが、所詮ちっぽけな存在だ。自分一人では何もできない。社会の一員であるという関係なしに存在できないのに。生きていくことすらままならないのに。あなたがいるから生きていける。仲間がいるから希望が持てる。共感できるから喜びがある。だから未来がある。

クライアントの悩みを聞き、私自身も闇の中を一緒に歩いた気分になった。

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秋は短い。晴れた日は思い切り楽しみたい。

 

「ウーブンシティ」と章男社長の葛藤

トヨタの「ウーブンシティ」をご存じだろうか。

豊田章男社長は今年の7月に、NTTとの資本提携を発表した。「ウーブンシティ」を実現するためにはビッグデータの活用は避けて通れない。そのためには情報通信企業のノウハウが必要不可欠だと思ったのだろう。

更に彼は止まることなしに、7月に自動運転ソフトの開発を担う子会社TRI-ADを、持ち株会社「ウーブン・プラネット・ホールディングス」と自動運転技術を開発する「ウーブン・コア」、ウーブン・シティなどの新しい価値創造を担う「ウーブン・アルファ」の2つの事業会社に移行させた。

そう聞いても、「そうなのね!」で終わってしまう。ここで注目せざるを得ないのは、持ち株会社「ウーブン・プラネット・ホールディングス」に彼は私財を投入していることだ。金額は分からないものの、彼はトヨタという企業の取締役会が承認した投資ではなく、私財を投資したということなのだ。

恐らく彼は深く葛藤したのだと思う。トヨタには37万人の社員がいる。それが章男社長のスマートシティー構想に賛同する景色を想像できますか? 2020.1にラスベガスで行われたCESで彼は「ウーブンシティ」のコンセプトを発表した。静岡県裾野市にある工場跡地にスマートシティーを作る構想だ。2000人がそこに暮らし、そこで発生する情報を活用し新しい街づくりをするのだ。

その発表に対して、社員は反応をせず全くの無関心だっという。自動車の将来はどうなるのか? モビリティーの未来はどうなるのか? 章男社長は壮絶な危機感を感じているのだろう。世界のリーディングカンパニーのトップの責任、創業家の血を引く責任、影響、社会の成熟に対して果たすべき役割、生活、移動、環境、幸せ・・・。成し遂げたいことは何なのか?

彼の葛藤を知る術はない。僕たちの目の前にある事実は、彼は私財を投じて闘いを挑んでいるということだ。社員の賛同を得られない事業にトヨタとして投資することに、限界を感じていたのかもしれない。トヨタの生存領域にスマートシティーはなかっただろう。車を作りたかった社員にスマートシティーを創るリスクを飲み込めとは言えなかったのかもしれない

トヨタのCMをご覧になると、宇宙、コロナ対策防護服、「ウーブンシティ」が全部つながっていると言っていることに気付くでしょう。でも何が言いたいかわからないですよね。恐らく社員の多くは、章男社長は何を血迷っているのかと腹の中では感じていることでしょう。

「ウーブンシティ」構想には多くの企業が協調し、モビリティーだけでなく、住宅、エネルギー、食糧、教育・・・など、多面的に新しい取り組みがされるのであろう。

私財を投じて社会変革の実験を行うチャレンジャーは、日本の化学反応の触媒になれるのだろうか。社員や株主・投資家やサプライチェーンを担うパートナーの共感を得られるのだろうか

もちろん、彼の描くスマートシティーはモビリティーと深くかかわるだろう。日本におけるスマートシティー事業は主人公が未だに現れない。少子高齢化の日本においては、都市経営、特に地方のそれは、街を生活を維持できるかどうかを決める最重要テーマだろう。極々近い将来、上下水道、電気、道路や橋などのインフラさえ維持できない限界集落が多発するでしょう。それは、「ぽつんと一軒家」のような寒村だけでなく、地方の街や都市にも広がっていくでしょう。それが分かっていながら、スマートシティーに投資をする人がいない。国も自治体も民間企業も少額投資で、まるで様子見だ。誰も政治マターだと思っていない。これからの日本を考えれば、国策以外の何物でもないのに。

その中の「ウーブンシティ」。これからどうなっていくのだろう。直感的には、このプロジェクトは、その流れに一石を投じるものにならないと感じる。誰かが注目してメディアに火をつけないと。目を離せない。

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小布施で買った「北信流」。ひやおろしのシーズンももう終わり。

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我が家の近所ではすでにサンタさんが現れた。もうそんなシーズンなのか。ひやおろしが終わればクリスマスか~

 

アメリカの希望とぼくたち

これを書いている時点で、アメリカの大統領は決まっていない。いや、一か月経っても決まっていないかもしれない。もう、いちいち報道に耳を傾け、ほっとしたり、がっかりしたり悲観的になるのはやめようと思う。予想の報道に耳を傾けるのはやめよう。予想なんて占い師と同じ価値しかない。結果を待とう。

 

■当事者意識

ミレニアル世代やZ世代の人口比率がが日本に比べ圧倒的に多いアメリカ。多様性は益々広がり、近い将来には白い肌で青い目の人はマイノリティーになる、という人もいる。彼らは、今回の大統領候補が二人とも70歳台という現実に、悲観するのではなく、とりあえずトランプをホワイトハウスから追い出すことに意味を見出しているようだ。ごく近い将来アメリカの主人公は自分たちの世代になる。そう、日本の同世代と比べて、自分たちは関係ないという冷めた諦観、というより無責任感、第三者感かもしれない、がないのだ。

アメリカはどこに向かうのだろう?

日本人には理解できない今回の分断の先に何が待っているのだろうか?

若者たちの当事者意識が新しい時代の扉を開けるのではないか。

それは日本の人口構造や若者の政治離れや当事者意識の欠如に比べると、混沌の極致であるアメリカの方がよっぽと期待できるのではないか、と思わざるを得ない。

きっとこのカオスの先に、「進歩」と「成熟」が待っていることだろう。

 

■予防的やさしさ

今から10年以上前に「ほんとはこわい『やさしさ社会』」という本を読んだ。やさしさには二つある。予防的やさしさ治癒的やさしさ。前者は、人間は傷つくと立ち上がれない。だから傷つけないようにするのがやさしさである、という考え。後者は、人間はそもそも傷つくことは避けられない。傷ついた時に手を差し伸べるのがやさしさだ、という考え。私の記憶ではそんな話だった。日本人は前者。だからディベートも下手。もし本気でやったら、友人関係が壊れる。傷ついたらリカバリーが効かないと思っている。だから、自分の意見を言えない。本気で議論できない。怒れない。

だから、欧米人に議論で勝てない。欧米人が小学校からディベートをしているのとは、大違い。世界で主張できない日本人がいる。日本が世界の中心に入れない理由。

私は昔こんなことを話していた。今でも考えは同じ。イメージしてください。転んで怪我をした。どうってことないと、なめていたら膿んできた。家にある「オロナイン軟膏」を塗って放っておいた。毎日塗り続けた。そのうち膿は広がり痛みも治まるどころかひどくなった。それでも、軟膏をやさしく塗り続け治癒を待った。何か月経っても治らないばかりか、ひどくなる一方だった。

有りがちな話だ。ビジネスでも。私はこう話した。なぜ、膿んでいる個所に指を突っ込んで膿を出さないのかと。放っておいても、やさしく撫ぜていても、軟膏を塗り続けても、治らないものは治らない。であるなら、痛いのを覚悟して指を突っ込んで膿を出すべきだと。

予防的やさしさで、解決できないことは多い。目をそらさず向き合って、根本的、本質的な解決策を実行しよう。それができない人が多い。先送りして傷口が広がる事例は腐るほどあったではないか。目をつぶって指を突っ込もう。

それがやさしさだと気付いてほしい

 

■主人公

あなたが主人公です。決して逃げないでください

これからの世界。制約だらけです。世界のために我慢しなければならないことだらけです。

それでも、豊かな人生は送れます。逃げないで向き合ってください。

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そびえる山にひるんではならない

 

真っ新な朝

組織に属するいわゆるサラリーマンにはいろいろなことが起きる。例えば、中途採用された人が登用され、新採以降ずっと同じ会社で働き続けた、いわゆる生え抜きである自分が冷や飯を食った話。英語ができないと昇格できないと言われたものの、仕事では全く使う機会がないので、その必要性を理解できず努力する意欲がわかないまま、後輩にどんどん抜かれていく話。長い経験から学んだビジネスの基本や成功パターンを、若手に積極的に伝授してきたつもりだが、どうも煙たがられているらしいと気付いた話。新しいビジネスへの挑戦の機会は、若手ばかりに回ってくる。彼らが次々に失敗するのに、経験も実力もあるのにチャンスが巡ってこないと愚痴る話。枚挙に暇がない。

 

僕たちは真っ新になれるだろうか? 一からスタートする覚悟がありますか? 肩書のない人生を想像できますか? 360度評価を直視できますか? 俺は貧乏くじを引いていると愚痴っていませんか? 滅私奉公してきた自分の人生をはもっと評価されるべきだと、思っていませんか?

 

あなたの前に姿見(鏡)があります。そこに写る自分を客観的に評価してみましょう。あなたにはどう写っていますか? あなた以外の第三者はどのようにあなたを見ているか、想像してみましょう。あなたは、自分の価値をどのように第三者に説明しますか? 試しに転職マーケットに身を投じてみてください。あなたの価値を朗々と説明してみてください。相手はあなたを高給で迎え入れると想像できますか? あなたがもし成功するとすれば、その陰に採用されなかった人がたくさんいるはずです。その人たちに比し自分の能力や可能性は、どう秀でていると想像できますか? その能力が明確に存在し、それにempathy(共感)する人たちがいることを客観的に説明できますか?

 

本当の実力を相手に伝えることはとても難しい。若いとか、エネルギーに満ち溢れているとか、最新のテクノロジーに詳しいとか、そんなことに比し劣等感に苛まれているシニア。

 

あなたの経験や能力やモチベーションを必要としている人に、どうやって巡り合えるのだろうか。将来の可能性に投資をするなら、若い人に投資をしたいと企業は考える。だから、メンバーシップ型雇用の文化が日本には定着している。課題は多いもののジョブ型雇用の要素が浸透してくれば、企業の採用要件は具体的になる。〇〇ができることというように。そう、僕たちの価値は具体的に△△ができること、というように定義できないと門は開かれない。もちろん、それは実績によって証明できなければならない。そして、その実績は、こんなに努力してきたとか、社命でこんなに苦労してきたというようなことでは全くないはずだ。

 

それが自分の価値。価値をお金に変換するのが雇用でしょう。自分の価値を客観的に俯瞰するよい手段が、職務経歴書を書いてみることだ。何が強みなのか、それが客観的なのか、即ち第三者が評価できるエビデンスなどがあるのかなどを考えながら書くことだ。マネジメントができる、などでは評価されないことは当然。自分にどれだけ自信があろうが、鏡に映る自分はバイアスまみれな虚像かもしれない。オファーされた金額の少なさに愕然として、初めて市場価格を知るなどというケースは多い。

 

シニアになるほどに、バイアスまみれになるのが人間の本性かもしれない。しかし、それに抗ってこそゼロクリアだ。一からスタートし直す勇気が、新しい協調を培う。新しい切磋琢磨を呼び込む。実績という土台の上に、新人の様に新たに学んだ工法で使ったことがない材料を使って、フレッシュなデザインで、新たにアバンギャルドな建物を建てる。そんなチャレンジが潔い。その姿に多くの人は共感するだろう。そして経験は新たな価値をまとい、多くの人がそれを必要とするだろう。

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太陽は何度沈もうが、必ずエネルギッシュで新鮮な朝が来る

 

BTSとBMCと

前に書いた通り、僕は仕事中は(オンラインミーティングを除く自宅デスク)もっぱらAmazonMusicHDを聴いている。その日の気分でミュージシャンやプレイリストを選ぶ。ポップスを聴いていると、この2か月くらいよく流れるのが「Dynamite」。アメリカで流行るために必要な要素を見事に織り込んだ曲。メロディーもハーモニーもファルセット満載な高音域も、方程式を解くように作りこまれた、ヒットが必然の出来だ。実はそのグループ名(BTS)を知ったのはつい数週間前。更にそれが韓国のグループと知ったのも、あの徴兵逃れ云々の報道を聞いた時だった。現在23~27歳の彼ら。実はデビューは2013年。結構ベテラン! びっくり。なぜ日本から世界で羽ばたくポップスが出ないのだろう。これからますます日本のマーケットは小さくなる。コミック以外にもCool JAPANが欲しいね。日本という国にもっとシンパシーを感じてもらうためにも。

 

さて、今日は最近気づいたこと。先日知人からのメールを読んだことがトリガーになり、あるブログを読んでインスパイアされた。それは、インクリメンタル(incremental)イテレーティブ(iterative)の意味です。

そもそも意味は前者が「次第に増加すること(漸増的)」「増加部分を積み上げていく方式」、後者は「反復的」「繰り返す」という意味です。これではよくわかりませんよね。実はこれはソフト開発をする時などにも使うようです。

このサイトを見ればイメージがわきます。

rihoublog.com

ソフト開発をする際も、特にアジャイル開発を進めるときはどう作るかに注目した方がいいですね。インクリメンタルに作ると、全体をリリースするまで使えません。(ただし、サブシステムごとにサービスが独立していればその限りではありませんが。)部分的に完成させるように作ると、全体ができるまでに後戻り工数が増えますよね。全体の整合を考えずに作っていますからね。それに対して、イテレーティブに開発すると、基本的な機能だけで全体を開発・リリースし、その後機能強化を続けるという感じですから、リーンスタートアップ的な新規事業開発に向いた考え方になりますね。極簡便な機能を無料あるいは安価にリリースし、顧客を掴んでから順次機能を強化していく。クラウドサービスの多くはそうして成長してきた。もし顧客が付かなかったら撤退すればいいのですしね。

開発以外でも僕たちビジネスマンの日常において、二つのアプローチを的確に使い分けることが大切なシーンがあります。それは、資料作成です。提案書やプレゼン資料がその典型です。どうです皆さんは? 思いついた部分だけ完成させる、例えばパワポなら思いつくまま1ページずつ脈絡なく完成させていく人もいますよね。まるで、いろんな部品がばらばらに完成していく感じです。それを組み合わせても文脈が成り立たない、なんていう経験をしたことのある人も多いのではないでしょうか。それが、インクリメンタルに資料を作った場合ですね。

そうです。全体として何を主張したいのか等のストーリーが、よく分からないと指摘されるケースですね。読み手に刺さらないわけです。資料を作る場合のこつは、まず全体構成をイテレーティブに作ることです。アウトラインですね。起承転結のストーリーのようなイメージです。アウトラインを作ったら、その構成に従った部品(ページや見出し、章立て等)をインクリメンタルに作るのですね。そして、最後に全体のストーリーが腹落ちするか、各部品が機能しているのか等を、イテレーティブに見直すのです。

私もかつて部下やプロジェクトメンバーから報告や説明を星の数ほど(ウソw)受けてきましたが、インクリメンタルに作ったことが明らかなケースは、実はかなり多いですね。言いたいことだけをワンポイントだけ渾身の力を込めて作ってしまうので、そもそも何を伝えたいのか、聞き手はどの程度予備知識や背景を知っているのか等の配慮などが、すべて欠如しています。結局何が言いたいのかが分からなかったりする。

ビジネスの世界ではこのようにイテレーティブに考えるアプローチが必要です。手前味噌になるリスクも回避できますね。上空から鳥瞰する感じと言ってもいいかもしれません。

多くのビジネスパーソンは新規事業開発に悩み苦しんでいますね。そんな人たちに必要なフレームワークBMC(Business Model Canvasですね。皆さんもご存じだと思います。さて、気付きましたか? BMCもそうなのですよ。舐めてはいけません。どこか一部が尖っていることに自信を持っているだけで突っ走っても、ビジネスにはならないのです。イテレーティブに全体の整合と反復的な深堀なく、BMCは意味をなさないし、それに従ったビジネスは成立しないのですぞ。

 

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平和な我が街と秋晴れと

 

New Normal って何?

New Normal って何だろう。そもそも Normal とは?

常識、常態、普通・・・。それって何?

正解が何かわからない現代、Normalを問う意味があるのだろうか。

似た言葉に“王道”がある。私が以前勤めていた会社で、ITサービス事業の責任者になったときに私はこう言った。もう9年前のこと。「王道に立ち返ろう」と。

リーマンショックによって急速に萎んだ需要と闘う道を見つけられない状況の中、“原点に返ろう”“ITサービスの本質の価値”に立ち返り、顧客価値を取り戻そう、との思いで発した言葉だ。小手先の戦略をいかに振りかざそうが自らの価値を見失うだけだと思った。自社の有する価値と向き合い、その価値の本質が何なのかを再評価できれば、顧客は戻るはずだと。

その後3年経ち、5年経ち・・・僕たちを取り巻く環境はどうなっただろうか。市場の変化やテクノロジーの変化は急速にその速度を増し、今まで価値があったと思うことが一瞬にして価値を失う。今まで経験してきたこと、学んできたことは足かせでしかない。そのアンカリングが判断を誤らせ、致命的な時代遅れを生んできた。

極端に言えば、今、皆が共通して認識する正解など存在しない。定石もなければ王道もない変わり続けることが唯一の処方箋だと思う。

以前にもこう書いた。今必要な価値観は「PDCAでなくOODAロジカルシンキングではなくデザインシンキング方程式を解くのではなく、正解のないことに挑戦する持続的イノベーションではなく、破壊的イノベーション重厚長大なやり口ではなく、リーンスタートアップQCDを守るのではなく、0から構想するなど」の変革だと。

 

そこで、冒頭の問いに戻る。

New Normal って何だろう。

先日、山口周氏の話をオンラインで聴いた。彼の主張に共感した。「新しい普通を探すのではなく、普通はないという発想が大切」「画一化するから普通という概念が生まれるのであって、(現代の)多様性は普通がないということ」「正解はない、定石はない」と。

そして、これは自分で作った言葉と言っていたが「アセットリバース」の時代だと。これは、「過去の資産が足かせになる」「知識・経験の不良資産化」を指し、これは、普通は「能力や知識が積みあがると個人の価値が上がるが、環境が変わると一気に意味を失う。即ち新参者がひっくり返せる」と。正に、資産がバイアスを作り足を引っ張るということ。「常識が次の常識を生む。それが繰り返される。正に常識のネットワーク」ところが、先ほどの様に「一つの常識が倒れると、ドミノ倒しが起きる」のだと。

実に腹落ちする話でしょう。以前にも書いた「人類史上最も変化の激しい時代」はこのような価値観が必要不可欠だと思う。

すなわち、New Normal なんて存在しないのだ。Normalがない以上New Normalもないのだ。

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街中に咲いていたキンモクセイも一週間ですべて散ってしまった。

僕らの観ているビジネスシーンの変化も凄く速いことを肝に銘じよう。

 

女性活躍の課題とメンバーシップ型雇用からの脱却

安倍政権の看板政策の一つ「女性活躍」の旗の一つが「2020年までに指導的地位に占める女性の割合を30%程度にする」だった。14年のダボス会議でも安倍首相が同じ内容で演説するなど、いわば国際公約ともいえるポジションだった。それがあっさり30年までの目標と格下げされてしまったのはご存じの通り。それに抗うように、日経新聞主催の「ジェンダーギャップ会議」が行われるなど、再びスポットライトが当てれれている。20年前から女性活躍は重要だと言っていながら、足元では企業はほとんど変わっていない、というのが現実だろう。このままではこの先何も変わらないまま時が過ぎてしまいそうだ。最近私もクライアントとこの件を話すことが増えた。D&Iの典型的課題にちゃんと向き合うことの重要性を分かってほしいのだ。

“女性活躍”のことを真剣に考えると、いろいろな壁にぶつかる。例えば、いかに女性の背中を押そうが、当の女性からすると「活躍してほしいと言われても、家事も育児も頑張り、その上仕事で活躍することを期待されても無理だ」と感じる人がほとんどだろう。いかに職場の理解があろうがだ。

即ち、場合によっては、職場で背中を押されても、夫の顔が浮かんでしまい、有難迷惑と感じてしまう人すらいるのではなかろうか。その壁を乗り越えるためには、一つは夫の理解が必要不可欠だということだ。能力は均等で、機会も均等、社会に還元できる価値も均等なわけで、家事や育児も均等でなければ、そのパフォーマンスは発揮されることは難しく宝の持ち腐れになる。その「均等」という価値観を腹の底から理解していない夫が多いのではないだろうか。“どっちが稼ぐ”などという価値観を持ち出して解決を図ろうとする夫もいる。妻からしたら「そういうことじゃないんだよ」と叫びたくもなろう。価値はお金で換算できるものだけじゃない。古い価値観の男性は、どこかで自分を支えてくれる妻、自分の価値観に合わせて動く妻を求めているのだろう。そんな夫が令和の時代にも残っていると感じる。女性が社会のおいてもっと活躍するためには、夫との信頼関係やコラボレーションの価値観が共有されていなければならない。何も夫に「ごはん遅くなってごめんね」とか「明日の朝の保育園見送りを代わってくれませんか」など、謝ったり機嫌をとったりするのはどう考えてもおかしい。そんな家庭環境で女性活躍を語ること自体、社会の機能不全を感じるのだ。企業サイドがいろいろな取組をしても片手落ちなことは間違いあるまい。そう、夫の教育が必要なのだ。

一方企業サイドも、いまだに古い価値観がはびこっている。「結局無理がきくのは男性だ。転勤や残業、急な休日出勤は女性には無理だ…」というような価値観。そのベースにあるのが上記のアンバランスだが、女性サイドが「我が家は大丈夫です。夫と分担してますから」と言おうが、会社サイドが余計な配慮をしてしまう、良かれと思って。間違った配慮でしかない。また、そもそも無理がきく云々の価値観がずれている。自分の都合やライフスタイルを捨てさせてまで滅私奉公する人材を求めること自体が、間違っている。そんな価値観がおかしいともう気付きましょう。働き方改革ワークライフバランスなんて言っちゃって、その本質を理解しましょう。

同時に、ステレオタイプにワーククライフバランス云々を押し付けるのもおかしい。そもそも企業は競争の中で生き残りと成長を賭けている。ここで頑張らなきゃいつ頑張るのだ、というタイミングもある。そして、仕事がライフワークだと思う社員もいる。それを間違っていると断ずることも過ちだ。多様な価値観を理解しなければならない。いろいろな価値観、経験、視座などが交じり合うことが重要なのだ。金太郎飴のように一色に染めようとする古い価値観は、企業や社会を澱ませる。居心地が悪いと感じる人を増やすだけだ。

“ジョブ型雇用”、“メンバーシップ型雇用”の議論が広まっているが、上記のような古い多様性を認めない価値観は、明らかに旧来のメンバーシップ型雇用の産物だと感じる。スキルで給与を決めず、会社都合で異動や転勤を決めることに耐えられるかどうかが重要な価値観だからだ。

かといって、ジョブ型雇用を安易に称賛するつもりはない。多くの企業でその志向が強まってはいるものの、中途半端な運用をしても混乱するだけで、早晩挫折する気がしてならない。ジョブを詳細に定義し、いちいち契約して給与も決め、会社都合で異動することはなく、必要なポジションは丁寧にジョブを定義して応募して採用し、見つかるまで採用活動を続けるようなことを通年やり続けなければならず、よっぽどの覚悟と準備と社員の理解浸透が整わないと、不公平感がはびこり、職場心理が荒れるだろうと推察される。そもそも多くのポジションはいい加減なジョブ定義しか書けないと推察する。

しかし、この議論は今後の企業と社員の関係を大きく進歩させる重要な変革起点になる。特定の職種から始めるとか特定の階層以上から始めるとか、丁寧な準備と共に段階的な浸透を図るなどの施策が必要不可欠だろう。

女性活躍の観点から横道に逸れたように感じるかもしれない。しかし、メンバーシップ型雇用の価値観からの脱却が、女性活躍の浸透を助けるのは間違いないと思うのだ。

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均等が一番