『あすこに行くと成長できそう』

皆さんお元気でしょうか。

コロナ禍は終息する見込みは立ちませんね。私が聴講する予定だったフォーラムはWeb開催になり、取締役会も延期になりました。このような中でも、残念なことに地下アイドルのコンサートは相変わらず行われているし、さいたまアリーナではK-1が開催されましたね。自治体に開催取り止めを強制する権限はないと言いますが、明確に要請することはできたはずですね。公式に公表されている感染者の数は約2週間前に感染した数です。少なくなってきたと言って安心してはならないのです。その傾向が2週間、1か月と続いて初めて収束方向だと判断できるはずです。皆さん安心しすぎです。先ほどのようなイベントを開催してしまったら、あっという間に新しいクラスターが出てしまいますね。運不運の問題です。社会全体で終息に向かい努力をしているときに、その成果を運に任せてはなりませんね。できる限り感染を終息させるか、最悪でも拡大を遅らせ、ワクチンや薬がリリースされる時間を稼ぐしかありません。最も好ましいのは、報道もあった既存の薬が効くことが証明されることですね。更にそれがジェネリックであれば低価格で普及でき、どの内科医でも措置できればほぼインフル並みの脅威に抑え込めます。それまでの努力と我慢です。オリパラが予定通り開催されるのは諦めましょう。最短で秋から冬の開催でしょうね。それまでに上記の見込みが立つかどうかは、私たち次第です。

 

さて、今日はスキルの価値について書きますね。

皆さんが働いている職場や会社は、社会で通用するスキルや能力を磨ける場所になっているだろうか? 内輪のムラ社会だけで通用するスキルや能力だけを一生懸命磨いても、価値は低いと言わざるを得ませんね。世の中何処に行っても通用する、というような価値のあるものでなければ自分の存在価値は狭い世界の中のそれでしかないですね。私たちは一生、特定の会社をよりどころにして生きていくのだろうか。自分はそんなつもりはなくても、いつの間にか偏った価値観や偏見やバイアスに侵されてはいまいか。

部下や後輩を育てる日常では、「社会人として」とか「日本では」「グローバルで見て」とか「業界では」とか「X-Techの時代では」とかの枕詞をおいて話そう。ともかく「当社では」「ここでは」ということを前提とする会話は避けた方がいい。日常からそういう癖をつけた会話を心掛けた方がいい。ムラ社会の中の価値観に染まらないように。(言うまでもなく、ここで言う社会で通用するというのは、例えば、一般的な品質水準より当社の基準は厳しいというような、ポジティブなものを否定する意味ではありません)

自社の基準、人事評価や予算、KPIなどは会社の枠を外したら客観的かどうかなんて甚だ怪しい。もちろん、公正に評価するためには何らかの基準が必要だ。だが、それはそのためだけに存在するのであって、世界標準の評価基準でも何でもない。自分が世の中でどれだけ通用するかどうか、価値があるのかどうかとは全く関係ないのです。

自社の中だけで通用するスキルなどを身に着けるより、世の中、特にグローバル視点で通用する(必要とされる、高付加価値な)スキルなどを身につける方が、将来性が間違いなくあります。少なくてもその差を認識し、客観性を失わないように努力することが必要不可欠です。これは自分の損得だけの問題ではないのです。もちろんそうなればキャリアアップのチャンスは明らかに開かれます。しかし、それ以外にもメリットはあるのです。顧客やステークホルダーにたいして、客観的に競争力とは何かという視点で訴求ができるようになりますね。また、価値観が磨かれ、自社を正しい方向へ導くエネルギーになります。チームをビビッドにします。即ち我田引水から解き放たれるのです。

みずほファイナンシャルグループ グローバル人事業務部の日置健太氏は「目指す目標は『あすこに行くと成長できそう』と皆に思われる『場』になること。自分の価値を高めたいと考える人材が集積し、その知見が次世代型の金融ビジネス構築を急ぐみずほの一助になる好循環を目指す」と話します。皆さんの職場やチームが『あすこに行くと成長できそう』と思われるようにするにはどうすればよいのかを、よく考えてほしいと思います。リーダーの日常から変えていこう。

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研ぐべき爪が割れてきた。20年位前から白い線がずっとあるが、その先端から裂けてきた。皮膚科に行ったらなかなか治らないと言われた(涙)。ステロイドを塗る毎日。爪を研がないと人生の価値は高められないのにな~w



むっつり

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清々しく健やかに生きようよ。コロナに負けずに(*^^)v

最近どうも気になってしょうがない。歳を取ったからなのかな~??
 
それは「ニコリともしない日本人」だ。
 
赤の他人とのコミニュケーション。例えば、カフェでウエイトレスが、声をかけてくるときを想像してください。
「御注文お決まりになりましたらお声掛け下さい」のシーン。
ニコリともしない客。声も出さない。機嫌が悪いのか、むっつりしたままコクリと首を2センチ動かす。
 
例えば、つい先日。レジでお釣りを受け取らず無言で立ち去る女性。レジ係は慌てて「お釣りですよ~」と声をかける。振り向いた客はむっつりしている。無言でお釣りを受け取り表情も変えず、コクリともせず立ち去っていく。レジ係の人は寂しいだろうな。
 
例えば、エレベーターの中。奥から降りる時に、「降ります」でもなく、「失礼!」でもなく、無言で押す。むっつりしたまま。
 
相手が友達などだと、不自然なほど、媚びを売るように、猫なで声で笑顔で可愛く話す。場違いなほど。友達に捨てられたくないのかな~?
 
何故それほど違うんだろう。
 
そういう人は信じられないな。絶対に好きにならない。同僚や上司にはニコニコとしているが、家に帰ればパートナーに対してはぶすっと機嫌が悪いんだろうな、なんていう想像が付きまとう。悲しいね。
 
礼儀ってなんだろう。
そういう人って、お年寄りなどを労ることができるんだろうか。きっとできないでしょうね。「一瞬の出会いなんて、何の役にもならない」なんていう感じ???
 
それって、日本人の一つの特徴なのかもしれない??? 日本人てなんてダメなんだろう。
 
例外じゃないよ。毎日見る光景だよ(涙)
 

4つのイドラ

何歳になっても、もっと大人にならなければ… なんて反省する毎日です。バイアスまみれで自分勝手で怠惰で愚かだとね。ま、事実は事実として向かい合わないといけませんね。

今日は人間の偏見について少し書きたいと思います。今回も出口さんの書いた「哲学と宗教全史」にインスパイアされ、少し引用しながら書きますね。歴史の知識が乏しい私にとって、この本は正に大人の教科書。大昔に授業で習った断片が少しつながり、実に気持ちの良いものです。

さて、時は1,500年代。

ルネサンスの時代にローマ教会は繁栄から堕落へと落ちていきます。「世俗化や高級聖職者の堕落、そして下級聖職者の無教養などに対する批判が嵩じた」のです。バブッたのですね。ローマ教会のシンボルであるサン・ピエトロ大聖堂を改築しようとしたのですが、資金が不足します。その時に、ローマ教皇のレオ10世が贖宥状(しょくゆうじょう)を売り出したのです。これを所有していれば犯した罪を軽減してもらえる赦免状のようなものだったようです。なんでそのようなことをしてしまったのか? 彼はルネサンスを代表する貴族で、要するに聖職者というよりは美や芸術などの文化を優先してしまい、本来ならば信者の浄財を集めるべきところを心の弱みに付け込んだ、何というか汚いお金を集めてしまったのですね。

その2年後、神学教授マルティン・ルター「贖宥状に対する95か条の論題」を協会の壁面に張り出したのです。「人間の罪を身代わりになって宥(ゆる)すことのできるのは、神のみである」という正論です。それが広がり、聖職者たちの堕落や贅沢に批判的な人々はルターの意見に同調しローマ教会を強く批判しました。

これに対して、神聖ローマ皇帝カール5世がルターに教会を弾劾するのを止めるように迫りました。しかし、ルターはそれを拒否。カール5世はルターを追放したのです。ところが、ドイツのザクセン選帝侯が彼を城に匿ったのです。安全になったルターは、聖書をラテン語からドイツ語に翻訳しました。ドイツから、教会を批判するとともに聖書に返れという大きなウェイブを作ったのです。

ルター派は、ローマ教会が聖書に書かれていないことを勝手にやっていると批判したわけです。常識的、保守的だったわけですね。これが宗教改革です。

歴史の面白いところは、いろいろな事件が新しい流れを偶然のように作ってしまうことです。カール5世はルター派を禁止しました(1,521年)。ところが、既に東ローマ帝国を滅亡させていたオスマン朝は西へと軍勢を進めてきます。カール5世はウィーンを守るために、ドイツ諸侯の力を借りようと帝国議会を開き、ルター派の禁止決議を一時保留にします。ドイツは先ほどの流れで、ルター派だったのですね。ルター派は活気づきます。オスマン朝は冬の寒さによって撤退をし、なんとかウィーンは守られたのです。そうすると、カール5世は手のひらを返し再びルター派禁止決議を強行しようとします。笑っちゃいますね。自分のご都合。イデオロギーの違いで党が二つに割れても、勢力の拡大のためにまたくっつくどこかの国の政党みたいです。ルター派はカール5世に抗議書を送ります。分かりますか? 抗議すなわちプロテストしたので、ルター派プロテスタントと呼んだのです。

ちなみに、ローマ・カトリックは先ほどのように華美で堕落的です。それに対しプロテスタントは質素で禁欲的です。歴史的にカトリックの比率が高い国は、イタリア、スペイン、ポルトガル、更に南米の国々です。プロテスタントの比率が高い国は、ドイツや英国、北欧の国々です。分かりますよね。食事や服装は明らかにその影響を受けているように見えます。

宗教改革を支えた人はもう一人います。それがカルヴァンです。カルヴァン「予定説」を主張しました。「聖職者も領主も一般市民も、すべて聖書や法律の前では平等である」そして、「魂の救済を得られる人は、あらかじめ神によって定められている」と主張したのです。ローマ教会はずっと「死後に天国に行くか地獄に行くか、それは最後の審判の時に決まる。だから生きているうちに善行を積み重ねて、最後の審判にパスをすることが肝要である」「善行を積んだのかどうかを誰が判断してくれるのか。結局のところは、ローマ教会の最高権威者であるローマ教皇です。そうすると教会に土地を寄進したり、お布施をたくさん喜捨(きしゃ)したりする」ことを信じていたわけです。

ところが、「予定説」では、生まれる前から死後の運命が定まっているわけですから、「教会で祈ることもお賽銭を積み上げることも何の役にも立たないことになります」ローマ教会としてはとても困るわけですね。面白いでしょ。

不思議なのは、そうであるなら気ままに生きて信仰深い生き方はしないはずなのに、そうではないことです。「自分たちは選ばれて天国に行くのだから、与えられた天職を禁欲的に務めるのだ信じこんだのです」凄いですね。

この教えは商業や工業にかかわる人々に浸透していきます。ちゃんと聖書を読み学習を旨とする人々です。マックス・ウェーバーは「このようなカルヴァン派の人々の生き方と業績が資本主義の原型を生み出し発展させた」と考えたそうです。これまた面白いでしょ。

話が長くなりました。少しはしょりますね。カール5世は帝国議会を招集し(1,555)、「召集されたドイツ諸侯や皇帝に直結する大都市の代表者たちは、自分の領地でルター派を信仰する自由を認めることを可決した」のです。神聖ローマ皇帝であり、ドイツ王でもあるカール5世は認めざるを得なかったのです。しかし、同じプロテスタントであるカルヴァン派はさらに過激であったために認められませんでした。

このように、時代はルネサンス宗教改革の大波によって大きく動いていきます。「神を絶対視せず、合理的に物事を見つめて考える知性の働きの大切さに、人間が目覚めたからでした」「信仰上位の世界から合理性と自然科学の世界へと時代は踏み出していきます。近代の幕開けです。その先頭に立った思想家が、イングランドのフランシス・ベーコン(1,564-1,642)でした」

彼は帰納法を体系づけた人です。「知識は力なり」と言ったことでも有名です。これはある意味画期的だったのです。神ではなく人間の力にフォーカスしているからです。宗教の力ってずっと凄かったんだと気付きますね。

彼は人間は「偏見や先入観に囚われがちな性格があることを」警告しています。その性質のことをラテン語イドラidolaというのだそうです。アイドルidolと語源は同じだそうで、両方とも偶像とか幻想を表します。

彼は、人間には4つのイドラがあり、それに気を付けないと世界の真実を見逃してしまうぞと警告しているのです。これが実に鋭い。

種族のイドラ 「人間が本来、自然の性向として持っている偏見。対象を自分の都合の良い方向に考えたがる性向です。嫌なことは過小評価する。楽しいことは過大評価する。見たいものしか見ない。そのような性向を指します。」

洞窟のイドラ 「個人の経験に左右されて、ものの見方がゆがむケースです。狭い洞窟から外界をのぞきみるようにしかものは見られないことです。幼少時の悲惨な体験が引いて、物事を悲観的にしか考えられない場合や、社会的経験が少なくて自分を中心とした価値判断しかできない井の中の蛙』もこの同類です。」

市場のイドラ 「伝聞によるイドラともいいます。市場の人混みで耳にした噂話から、事件の真相を誤って理解してしまうようなケースです。」ネットニュースに踊らされてトイレットペーパーを慌てて買い込むのなんかは、典型ですねw。

劇場のイドラ 「別名は権威のイドラです。劇場の舞台で有名なタレントが話したことや、立派な寺院で権威のある宗教家が説教したことを、何の疑いもなく信じてしまうなケースを指します。ありがちな偏見です。」

全て耳の痛い話ですね。これらは現代人への警告にもなっているのです。私たち全員が自分と向かい合って諫めなければなりませんね。

宗教の力は本当に強いのですね。ベーコンの時代にその頸木から逃れて、物事とりわけ人間そして自分に向かい合ったということなのでしょうか。人間は愚かです。4つのイドラはその典型ともいえる偏見です。自分と向き合って、どれほど愚かなのかに気付くところから始めなければなりませんね。

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聖書に戻れか

 そういえば、友人の結婚披露パーティーで神父役を演じたことを思い出したw

ちなみにカトリックでは神父、プロテスタントでは牧師というのだそうだ。

人生の先細りを避ける

■価値観

そのボディーは「人生観」と「仕事観」だろう。僕たちは価値観の縛られて生きている。だからこそ自分の価値観をはっきりさせた方がいい。自分の行動は何に縛られているのか。何が大切で何がどうでもいいのか… 本業であるコーチとしてのメッセージでもある。

言い換えると「価値観」とは「美意識」だ。何をもって美しいと思うか。実は「会社」という一種の人格も「美意識」で決まってしまうのではないかと思っている。会社には特徴のある独自の美意識がある。それは一種の文化。倫理にも似た精神。僕たちはそれに縛られて会社独自の「〇〇(会社名)」らしさを培っているんだな。きっと。

 

■願望

僕たち人間は皆、「ユニークでいたい」という思いを抱いている。それは健全な個性。自分らしさを出さないとパートナーを得られないし、認められない。それは動物の求愛行動と同じなのかもしれない。

ユニークであることが自分の存在証明なのだ。

同時に、「誰かの役に立ちたい」「何かを与えたい」と自然に思う。「幼気(いたいけ)な子供を抱きしめたい」とも。

すべて、存在証明なのかもしれない。

 

個性の価値

「モノ」や「会社」や「肩書」の価値はどんどん薄れてきた。どうでもいい。

そんなことより、「知識」や「経験」や「行動」や「想い」や「エネルギー」が価値にいなる。そんな時代に突入している。

即ち、「個性」が価値なのだ。

 

マンネリ

いかに価値が高い何かが提供できても、提供する側にもいつかは「飽き」というデモチが襲ってくる。

それを回避する唯一の手段が、上質なインプットを常に追求し、価値を「アップデート」し続けることなのだ。

人生の先細り」は絶対に嫌だ。

 

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希望にあふれる一年生が眩しい季節がくる。親の価値観を押し付けず好きなことをやらせてほしい。

 

「認知バイアス」の罠

人間は記憶の誤りや擦りこまれたもの、都合の良い真っ赤なウソなどにも縛られている。見たくないものは見えないというのも同じかもしれない。それを「認知バイアス」という。時に法的証拠の信頼性を大きくゆがめたりもする。思い込みを事実としてしまうわけだ。自分の信じている疑いようのない何か、を否定されても頑なにそれを曲げずに、かえって深くそれに閉じこもり、間違いを指摘する人に対して攻撃的になったりもする。某国の大統領の支持者たちも、本人の、すべて自分の指示による結果だというシナリオに染められた「認知バイアス」にまみれていると感じる。もっとも、彼らだけでない。私も含める人間全員が持つ心理なのだろう。

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最近のランチはこんな感じが多い。子供のころからポテサラにリンゴが入っているのは許せなかった。ところが、出会ったこのサラダにはリンゴが…これが実に美味いのだ。記憶を覆された。これも「認知バイアス」のなせる業かw


PRESIDENT Onlineの「『グレタ・トゥンベリは生理的にムリ』と話すオジサンの主張」が納得の主張をする。「『そもそも、気候温暖化を否定する考え方は、近代の工業資本主義を推し進めた男性優位的なアイデンティティと深く絡んでいる』と米国のオンライン経済メディアQuartzは指摘している。」「自然を征服し、大量生産・消費によって、生活を向上させるという近現代の工業システム。グレタさんは、そうしたマッチョな資本主義のシステムを否定したわけだが、同時に、『(その主な担い手たる)男性の信念、価値観を攻撃し、その『自尊心』を傷つけた』(Quartz)のである。その結果として、『自己防衛本能としての反射的怒り』を買ったというわけだ。」なるほど。よく分かる。

グレタさんの主張は正しい。ただし、いかに正しかろうが、「『自分は正しく、あなたは間違っている』と、自らの主張の正当性を示し、相手の間違いを指摘し、批判する手法は、科学的エビデンスをもってしても、決して、説得に効果を持たない。」となってしまう。そうだよな。納得。

これが、すべての人間が持つ“脳の癖”「認知バイアス」のなせる業なのである。

「我々はある意味、全員が環境破壊、気候変動の共犯者たちだ。それに気づきつつも、生活や生計や生存を優先させ、不都合な真実に目をつむってやり過ごしてきた気候温暖化を認めることは、自分たちの非を認めることになる。」

人間は本質的に「認知バイアス」との闘いなのだ、と理解しよう。バイアスまみれの自分と向き合い、客観的に自分を見よう

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これはローストビーフバージョン。これにもリンゴがw

 

 

 

 

 

 

 

 

ポスト会社の決意にエール!

■ポスト会社は40代から?

ポスト会社、即ち会社生活が終わった後のこと、をいつ考えればよいのでしょうか。50代それも中盤から後半に、現実の課題として見えてきた時から考え始める人が多いのではないでしょうか。それでは遅すぎるという本を読みました。彼の指摘は、「50代はポスト会社を見据えた過ごし方、時間の使い方をしないと、ビジョンも構想もなく、ロクな準備もしないままポスト会社に突入してしまうからです。40歳前後で、30代までに培ってきた経験・知見をもとに」自分と向き合い「40代・50代をその実現のためにどう過ごすのか、どんな経験を積み、どんな知識・スキルを身に着けたらよいかをきちんと考えるべきです」です。

素晴らしい指摘だと思います。ちゃんと考えちゃんと準備をした方がいい。少し自分なりに整理してみますね。

①どういう人生を送りたいのか?

②何のため、誰のために働くのか?

③どんな時に最も充実感を感じるのか?

というようなことを、真剣に自分の本心と向き合って考えることがまず第一に必要不可欠です。できればそれを文章に落とし込みましょう。自分の琴線に触れるように練りに練って書き下しましょう。それが今後の自分の人生の「」になるからです。いつも「そうだよな、僕はそんな人生を送りたいんだったよな」って思い出すのです。

そうしたら、

④そのために学ぶべきことは何なのか?

⑤学びたいことは何なのか?

⑥それには資格など要件はあるのか?

⑦必要な時間や費用は?

⑧道を教えてくれる人、仲間、メンターはいないのか?

などを考えることが重要ですね。ポスト会社をスタートするためには、大きなコストや時間を要する場合もあるのです。思い立ったときにすぐに、新しい仕事をスタートすることができないものもたくさんあるのです。

もしかすると、その道を描くためにその準備も兼ねられる転職をした方が良い、などという選択肢だってあり得ますね。

日々の仕事に執着すれば、時間だって限られるし、準備の時間もかかるでしょう。40代にちゃんと考える、という意見はよく分かります。

 

■旬がある

しかし、「もう遅い」なんて落ち込む必要は全くありません。以前に書いた通り「Life Design」にもう遅いなんて永遠にないのです。何歳になろうが、自分の人生はデザインし直せるのです。

言えることは、なし崩し的にポスト会社に突入しないことです。能力やモチベーションや時間が無駄になったり空回りした人生は、虚しいものだと思います。自分でもきっと嫌でしょう。もぬけの殻みたいに急に老け込んだりしたくはないですよね。

真剣に考えたくなる“旬”のような時期があるはずです。問題はその旬を逃さず真剣に自分と向き合うことです。その時は寸暇を惜しまず真剣に考えるべきです。必要な行動に取り組むんです。人間「ケツカッチン」になった時に爆発力を発揮するものです。夏休みの終わりになってやる宿題や、試験間際の一夜漬けの経験がそれですね。ただし、それでは身につかなかった、という記憶もあるはずですね(笑)。そう、やればできるけれど、ベストではないのです。最悪は、旬をも逃してしまうことです。

私などは、遅く来た旬を逃さず前職の時から準備をして、何とか起業した口です。前職の末期に気付き、現役の時からメンターやコーチを引き受け、志を確認しセンスを磨いてきました。それが、決意・覚悟を生み、退職半年弱前に起業を決意したわけです。

コーチ業をスタートした人たちの多くは、多くの時間や費用を投じ準備していますね。私の知り合いにも何人もいます。私のように一気呵成にスタートした人などほとんどいません。そういう意味ではロールモデルにはなりませんね。運が良かったということでしょう。

重要なことのもう一つは、友人などの人脈です。会社勤めの時からの知り合いがいろいろ助けてくれました。アドバイスをくれたり、紹介してくれたり、他社で働いている友人がワンタイムの仕事を発注してくれたりもしました。SNSでつながっていることも役立ちました。そんなことは想像もしていませんでした。「清水さん会社を辞めて再就職せずに起業するんだって?」「だったら紹介したい人がいる」という調子です。

 

■第二の人生にエールを

このブログを書いたのは、友人から手紙をもらって思いついたからです。その友人は前職の同僚でした。先日会社を退職して、雇用延長せずにある仕事を始めるというものでした。昨年学び、試験を受け資格を取り、まもなく新しい仕事をスタートするとのことです。私同様人にかかわる仕事です。これからの日本にとって大変価値のある仕事です。今までの経験やスキルが直接的に活きるとは思えません。そういう意味で大きなチャレンジです。しかし、情熱さえあればできると信じています。

人間は、学び挑戦し続けるということをしないと、待っているのは衰退です。誰かの役に立ちたい、社会の役に立ちたいなどという「利他心」が恐らく背中を押すでしょう。同時に自分自身が楽しめないとだめです。収入や肩書なんてまるで関係ない。自分を必要としている、自分が役立てると思っている、というような直感ともいうべき感覚を大切にした方が良いと思います。

活躍をお祈りします。

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最近のランチ。初めて入ったカフェは明らかに新しい顧客層を狙っているのが分かる。女性だけで営まれているそのお店。チャレンジャーだね。

 上記の写真の黄色いライスに見えるものは「クスクス」なのですが、恥ずかしながら「クスクス」とは何かをよく知りませんでした。健康的だとか聞くので、「粟」のような穀類かと思っていました。北アフリカ発祥の小麦のパスタだったのですね。糖質オフには適しませんねw

宗教とビジネス

 

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新木場の発見

起業して一年目が終わりました。昨年春から開業準備を始めて、6月末で前職を退職し、初めて個人事業主として売上が計上できたのが8月、そこから会計処理も板についたという状況にはなかなかならずw、いつも分からないことだらけ。その間税務署主催の記帳説明会や、入会した青色申告会に聞きに行くことなど、計7,8回はいろいろ教えていただいた。会計にまつわる本は3冊読破(実は斜め読み)。何とか決算と確定申告が1/27に終わりました。少し前の話です。本当に知らないことだらけでした。例えばこの確定申告期間。どこを見ても2/17からと書かれていますが、実は青色申告会に行くとそれより前に申告できるのです。今回はルーキーである私にとても親切に教えていただきました。次回からは独力でできるでしょう。きっと😅

 

孟子

中国の諸子百家時代の儒家として有名な人に孟子(BC372頃~BC289頃)がいます。少し彼に係ることを書きたいと思います。と言ってもほぼ出口治明さん(哲学と宗教全史)の受け売りですが…😅

彼(孟子)の主張の一つが「性善説」ですね。同時期に生きた荀子が「性悪説」を唱え、お互い批判しあっていたようです。「孟子は誰をもって性善としたかと言えば、上人を中心とする人たちです」中国では当時人々を上人、中人、小人と分けていたののですが、上人とは中央政府の役人を指します。中国は日本よりはるかに文化が進んでいて、更に100年くらい遡る戦国時代には文書行政が始まっていて、中央政府の役人は文書を書き地方役人に命令していたのです。そのように文章を考え、書く人を上人、読むだけの人を中人、読み書きできない人を小人

と言っていたのです。孟子は、上人即ちインテリ階級の人たちを取り上げて性善の対象にしていたのです。「もともと賢いのだから自分で努力して学べば、それで十分だという意見です」

「対して、荀子は下人を対象としていました。字の読めない人間に自助努力せよと諭しても、やりようがないのだから半ば拘束して勉強させる仕組みを作れ」と言ったわけです。

そうです。前者を「性善説」、後者を「性悪説」と言っているのですね。

実はそれに対し出口さんは面白い指摘をしています。「性善説性悪説は、社会を構成する別々の階層の教育について言及しているのであって、2つの説の間には矛盾はない。むしろ2説を並立さっせたことが、儒家の思慮深いところである」と。対立しあう二人を包んで、社会システムとしてどうやって制度化するべきなのか、という方向へ昇華していったのですね。その数十年後荀子の弟子であった韓非法治主義を唱え、中国に安定をもたらしていくのでした。正常進化

というか成熟していったわけです。

 

■王道と覇道

さて、話は変わりますが、昔私が会社の幹部合宿メンバーになったころの話。一回目だったか、社長以下12人の参加メンバーが想いを出し合うセッションがありました。メンバーの想いを共有し、心を繋げるためのプロセス。私は「王道を歩みたい」と話したのを思い出します。

「王道」とは何なのだろうか。

話を孟子に戻します。かなりはしょりますよ。孟子は「易姓革命」を唱えます。これは天命によって王朝が決められ、人民の安寧を保証できないと天命がくだり、愚かな王に警告(飢餓や自然災害)を発します。それでも改めないと、天は民衆に下克上を命じ王を後退させるという、天命を大事にする考え方です。

出口さんはこう解説します。「天命という抽象的な概念を除去して考えてみれば、実際に下克上(革命)を実行するのは農民であり民衆です。孟子の思想は、人民主権の萌芽ではなかったか、とも考えられます。」なるほど。このように思想家が文化や社会を作っていったわけですね。同氏は、時代が全然

違うルソー(1700年代)の「社会契約説」と似ていると指摘します。「人間は、それぞれの個人が本来、主体的な力や自由を持っています。これは自然法によって規定されています。このように自然法のもとに生きてきた自由な人間が、より主体的に社会で生きる権利を確立させるため、自分が生きている共同体と契約を結ぶことを、ルソーは社会契約と呼びました。この時個人は、共同体の運営を円滑に行わせるために、自分の諸権利の一部を共同体に委譲します。その結果として都市や国家が生まれます。」「個人の諸権利が委譲された共同体には、個々の意志が一つになった抽象的な意志が生まれます。それを『一般意志』とルソーは呼びました。」

「このルソーの社会契約説における『一般意志の存在と、孟子における天命という考え方は、社会生活の秩序を守る行動の基準として、多くの類似性を感じさせます。どちらも『人民主権がすべて』なのですが、民衆の自由気ままな意志を防ぐためには、公共の正義のような道徳的視点が必要であると、

孟子もルソーも考えていたのではないか。」達見ですね。尊敬します。

孟子易姓革命論という過激な発想を採りましたが、王道と覇道をはっきり分けていました。易姓革命論においても禅譲(前王統治権を新王に譲る)と放伐(武力で前王を倒す)を区別しています。」お待たせしました。ここで“王道”が出てきますw。

王道とは仁の力で国を治めることです。覇道とは実力で人民を支配することです。もちろん理想としたのは、王道の政治でした。彼は民衆の生活安定を政治の第一義と考える、民本主義の思想家でした。そして、孔子と同様に武力よりも仁徳を、政治の指針とすべきだと考えていたのです。」

“王道”とは仁徳を有する王が武力によらず、学問による教えや法律で世の中を治める文治政治なわけですが、そこから現代では ☆最も正統的な道とか、☆物事が進む正当な道というような意味で用いられますね。正当、正道、正攻法、正統派、定石という感じですね。

先ほど書いた私の“王道”とは「ITサービス事業を力強い正攻法で大胆に進める正統派でいたい」という意味だったのです。

実はその対極が“覇道”であるわけですが、実は恥ずかしながら当時は“覇道”という言葉を知りませんでした。当時はリーマンショックの後、傷ついた事業基盤の復活や露呈した弱点のカバーにに苦労していた私は、業績回復に奥の手も裏の手も奇襲も邪道もない、顧客価値を上げるという定石を歩むしかないと強く考えていたのです。

しかし、いま改めて“覇道”という言葉に向き合うと、新しいイノベーター特に、ディスラプティブ(破壊的)なイノベーターは、攻撃的で、強引で、奥の手を使いこなし既存のプレーヤーを力でねじ伏せていることに目を向けざるを得ませんね。もちろん昔の“覇道”と違い合法的ですけれど… そう、ビジネスに“王道”も“覇道”もなくなっている現実を直視せざるを得ないのでね。

しかし、私は思います。合法であれば暴力を振るってよいわけではないと。テクノロジーやビジネスモデルのユニークさやマーケティング力、営業力、コスト優位性などで勝負せよと。

 

覇道マネジメントの限界

世の中にいる有名な経営者には、一人で考え、部下たちを力でねじ伏せ、徹底的に尻を叩き、意思決定はすべて自分で行い、指示の通り部下を動かし、気に入らなければ首にする、というタイプの強烈なリーダーがいます。少なくともそういうイメージが付きまとう経営者が多いですね。

特に、成功した創業者、オーナーに多いかもしれません。だから成功したといってもいいかもしれません。戦時のリーダーは平時のリーダーと違い、強烈なリーダーシップを発揮し混沌の中に光を見出し、進むべき道を示し、全社をまとめ上げ荒波を乗り切らなければなりません。創業間もない時期は正に戦時。まさに“覇道”的リーダーシップなのです。

しかし、それは長く続きません。事業は必ず成熟し、さらに成長するためには、新しいマネジメントスタイルが必要不可欠です。社員を自立させ、自分で判断しスピーディーに行動できる人材を育成し、ありたい姿、新しい事業ポートフォリオを実現できる陣営を整えなければ成長できないのです。“覇道”の経営では人は育ちません。力でねじ伏せてばかりでは共感は得られません。最近よく言われる


エンゲージメントは高まらない」のです。

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